和尚さんの法話 『誤認されている仏教の教え』
今は単なる形式になってしまってますが、貼ってあるとい
うことは、この家は一切の事を捨てて、他の遊びごと、楽
しみ事を止めて、商売すら忌み嫌い避けて、ひたすら冥福
を祈ってる家、という印なんですよ。
だから「忌」と書いた紙を貼った家へは、遊びの誘いをし
てはいかん家だと。来て下さるなという印です。
そこの家にとっては、忌中ですから遊びの誘いに来て下さ
るなという印だし、貼ってあるから、ああ誘ったらいかん
なと。遊びごとを、忌み嫌ってる家だという印です。
一応それは四十九日です。
四十九日が過ぎたら、忌が明けるんですから。
忌明けといいますね。
忌が明けるんですから、当然、年賀状を出していいわけで
す。挨拶もするくらいなんですから。
お雑煮もあげてるんでしょ。
だからとんちんかんなことをなさってる。そういうことが
ありますね。
それから、和尚さんの檀家さんなんですが、月参りに行く
わけですが、その日でないといかんのですね。
仮に十五日が命日だとしますと、和尚さんの都合で十五日
に行けないということがあります。
それで遅れるより早いほうがいいと思うから、十四日に、
或は十三日にと思うて行ったらだめなんだそうです。
何故ですかと聞くと、命日と違うからと。
遅れるより早いほうがいいと思うて気を使って行ってもだ
めなんだそうです。
それは何故かといいますと、その人は命日の日に拝まない
と効果が無いと思うてるんですね。お経の効果がね。
それがおかしいので、その日はどうでもいいので拝むこと
が大事なんですよ。
遅れても構わないんですよ。
早いのも構わないのですが、遅れても構わないんですよ。
仏事は遅れたらいかんというのは、中陰です。
冥福を祈ってるこの忌中です。これは遅れたらいかんので
す。
昔の坊さんは説明をしただろうと思うのですが、仏事は全
て遅れたらいかんと、そりゃ遅れるより早いほうがいいで
すけど、中陰意外は遅れても構わないんです。
では何故、この中陰は遅れたらいかんのかというと。
中陰は、七日目ごとにお勤めをしますね。この四十九日が
中陰の期間です。
四十九日で、満中陰というわけです。
仏教の建て前からいうと毎日、毎日勤めていてもいいので
す。冥福の数は多いほうがいいのですからね。
兎に角、七日目ごとに勤めます。
而もそれは一日引いてるわけです。
遅れたらいかんので一日引いてる。
ということは、一日遅れが本当の中陰ですけれども、その
とうりとっていったら、どんなことでお参りに行けない、
施主の家になにかがあるとか、寺になにかがあって、その
日にお勤めが出来ないということが無きにしも非ず。
そうすると冥福が欠けてしまう。
それを防ぐために、せめて一日引いておく。
二日間も都合が悪いということはまずは無いとして、そし
て一日引いてるわけです。
それほど遅れたらいかんから用意をしてるんですけれども、
それは何故か。
七日目ごとに、向こうで生まれ変わります。
それはお経のそう説いてあります。
七日ごとに、また二七日済んだら生まれ変わる。
人によって、初七日で生まれ変わる人もあれば、二七日で
生まれ変わり、三七日で生まれ変わる人もあるし、中陰を
過ぎて満中陰で生まれ変わる人もあるわけです。
生まれ変わるといいましたら、皆さんは生まれ変わるとい
うと、この世へ生まれるだけが生まれると思うていたら大
間違いで、この世は一部分で六道の一つですからね。
早い話が、地獄、餓鬼、畜生というのはあの世にもあるし、
この世にもある。
それから修羅、それから天上界。
人間もこの世にもありますが、あの世にもある。
だから我々人間が死んで、あの世の人間界へ行く人が多い
はずですね。なかなか天上界へは行けない。
よほど善い事をしていなければ、人の命を救うたとかね。
天上界というのも一つじゃない。
幾つもの段階があるわけです。
そういうふうに生まれるという世界は、人間界を含めて
沢山ある。無数にあるわけです。
そういう仕来たりになってますから、死んで、その死ん
だ人が、少しでもいい所へ生まれさせたいというのが、
遺族の、所謂施主の願いのはずですね。
普通はそうですね、あいつは死んで地獄へ行けというよ
うな、そう思うている人もあるでしょうが、そんなのは
例外ですね。
普通だったら、死んだらいいところへ生まれさせたいと願
うのが遺族の願いですよ。
その願いを込めて行ってるのが、七日、七日の勤めであっ
て、それはよい処へ生まれるために勤めるのですから、既
に生まれてしまった後へお勤めの功徳が行ったら意味がち
ょっと違ってくる。
無駄ではないけれども、よい処へ生まれさせるための勤め
だから、生まれん先に功徳を送っておかないといかんわけ
です。
三七日で生まれる人だったら、初七日も二七日も遅れても、
まだ残ってるわけです中陰がね。
それだったらいいけど、それは分からんのですよ我々には。
残ってるのやら既に生まれたのかね。
だから初七日が過ぎたら生まれると、絶えずそう思ってい
たら間違いがないですね。
だから初七日に生まれても大丈夫、二七日に生まれても大
丈夫、三七日に生まれても大丈夫というつもりで勤めてい
るわけです。
そういうことで、この中陰の勤めは、いい所へ生まれさせ
てもらうための回向です。
この回向という意味は、お勤めするだけが回向じゃないん
です。
皆さんは、拝むことが回向だと、そう思ってるんでしょう
が、そうじゃなくて、拝みましたら功徳が必ずあるんです。
仏教では、有形無形いいことをしたら、何等かの意味で犠
牲を払っていたら、それには必ず功徳があるんです。
況やお経を読みましたら、そのお経の内容といいましたら、
お釈迦さんが我々を救うための真理を説いてあります。
功徳が籠ってますので、そのお経を読むということは、死
んだ人にも読んだ人にも功徳があるんです。
自分が覚えようと思うて一所懸命にお経を読んでたら、ま
るまる自分の功徳になるのです。
ところが、亡くなった人のために読むお経。
それを廻向というのです。
この世の功徳を、あの世の亡くなった人へ廻らせ向かわせ
る。そのことを廻向というのです。
だからお経の功徳を死んだ人にあげるという意味が廻向と
いうのです。
お経の功徳もそうだけど、供養をしたら供養の功徳がある。
その功徳を今日は親の命日のためにと思うてした功徳は、
皆廻向というのです。
お経だけじゃないんです。
廻向というのは、お経を読むことと違うんです。
お経を読むことは、読経です。
その読経の功徳を、廻らし向かわせるという意味が、廻向
です。
ですから、何か善いことをして、今日は母の命日だったと
しますと、乗り物に乗ったとき、年寄りに席を譲って、そ
のささやかな功徳を母の為にとやってたらそれはもう廻向
になってるんです。そういう意味なんです廻向というのは。
そういうことで、中陰の回向というのは、良い処へ生まれ
させるために渡す功徳ですから、生まれん先にその功徳を
送っておかないと、生まれてしまった後であればちょっと
その目的が違ってくる。だから遅れたらいかんのです。
作品名:和尚さんの法話 『誤認されている仏教の教え』 作家名:みわ