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和尚さんの法話 『仏説無常経』

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「雪山偈」

同じことを何度も何度も繰り返して申し上げることで
すが、仏教は、第一課はこの「無常」ということなん
ですね。

この無常のこの常という字は、常(つね)という字で、
常ということは変化しないということなんですね。

ところが、なに一つとして変化しないものは無いんだ
というお釈迦様のお悟しなんです。
何一つとして常のあるものは無いんだと、
それを「無常」といってるんですね。

時宗の二代上人のお言葉の中に、
「仏道に志す者は無常を心得るべし」こういうふうに
説かれています。

無常経というお経の内容は、何処を読んでも無常とい
うことを、詩の形で偈品ですね、偈で説かれてるんで
すけれども、その無常経というような題名でなくても、
それぞれのお経の中には必ず、一箇所か二箇所無常と
いう言葉が出てくるわけです。

前にもお話しをしたことがあると思うのですが、
雪山偈(せっせんげ)という詩がございますね、仏教
の詩。
偈というのが詩ですね。是の下へ頌(じゅ)と付ける
場合もあります。
頌と言ってもいいし、偈と言ってもいいし、偈頌と言
ってもいいわけです。
どのお経をみても、この偈というのがありますね。

例えば、無常甚深微妙法とありますが、あれは開経偈
と申しますね。
皆さんの在家勤行集の中にあるお経の題名ですけれど
も、開経偈といいましてお経を開くときに読むお経。

「無常甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持
 願解如来真実義」と。こういうふうに偈といいます。

観音経にもありますね。そういうふうにどのお経にも
というわけではございませんが、そういうふうに普通
の文章がありまして、それをまとめる意味で、偈とい
うのがありまして、昔は弟子に覚えさせたんですね。

そして覚えるときは文章よりもこの偈のほうが覚え易
いですからね、字の数の調子が宜しいですから偈とい
うのが大抵は付くんですね。
そして弟子たちはその偈を常に暗証していたというこ
とです。

この雪山偈というのは、華厳経のなかに出てくるんです
が、ひとつの物語ですね。
それは雪山という山に、ずっと過去世ですが、恒河砂数
の過去世ですね。
雪山という山があって、一人の若者が住んでいまして、
そしてただ一人で人生とは何であるか、心理とは何であ
るか、人間は如何に生きるべきなのか、或いは死んだら
どうなっていくのか、悟りとはどういうことか、迷いと
はどういうことかと、所謂仏教の道理を、一人でこの山
に住んで瞑想をしていたんですね。

そのときに、何処からともなくこの偈が聞こえてくるん
ですね。
それは皆さんもご存知の、「諸行無常」と言うことです
ね。
この諸行というのは、ありとあらゆるもの、全てのもの
ととっていただいて間違いない。
全てのもの、一切が無常であると。

「諸行無常 是生滅法」
と、ここまで聞こえてきたんですね。
諸行は無常なり、是生滅の法なりと、こう読みますね。

法というのは、この場合は心理、法則というふうにとっ
ていただいたらいいと思います。
宇宙の法則だと。無常ということは、これは法則なんだ、
心理なんだということですね。
一切のものは生滅していく。
生じたり滅したりするわけですね。
滅するというのは生じるから滅するわけです。
生者必滅。
いろんなお経の言葉が断片的に出てきますが、生じるも
のは必ず滅する。是生滅の法なり。
その青年が、これは大変な真理の言葉だということを悟
りました。
ところが辺りを見ても誰もいないんですね。
ところがよく注意して見ますと、岩陰に、息も絶え絶え
の鬼が倒れてたんです。
まさかこの鬼がそんなことを言ったとは思えないけど、
然しながらこの鬼しか居ない。
或いは、この言葉は鬼が言ったのかもしれない。
と思って、鬼に近付いていって、
今の「諸行無常 是生滅法」と言ったのは、おまえか
と聞いたんですね。
すると鬼は、如何にも私ですと。
そうするとその青年は、是は、この言葉はこれで完成
したものではないだろう、まだあとに続く句があるの
ではないかと聞いたんです。
如何にもある。と鬼が応える。
それを私に聞かせて下さい。と青年。
すると鬼は、それには条件がある。

私はもう、見てのとおり飢えて死にそうになってるんだ、
だからあなたのその若々しい肉体を私にくれるというな
ら、その条件で、あとの句を教えてあげましょう。
分かりました、私の肉体をあなたにあげましょう。
その代わりに、あとの句を必ず聞かせて下さい。
では聞かせましょうと、そういう条件です。
そのあとお経にはいろいろと続くのですが、その修行者
は、ぼろぼろの熊か鹿の皮を縫ったような着物を着てる
んですね、寒い雪の山ですから。
その着物をぬいで、鬼の前を持っていって、ここへ座り
なさいと。
私は下座で拝聴します。
仏教では、法を説く人は必ず上座でなければいかんので
すね。
聞く人は下座で聞くわけです。
それは法が尊いからです。
聞く人が上座で、説く人が下座でということになると、
説く人も聞く人も不徳になるということを説いたお経も
あるんです。
ですからお釈迦様が法を説くときには、上座で、獅子の
座というのがありましてね、そこで説法をなさったわけ
です。
ところが、お釈迦様だけじゃなくて、舎利弗がしたり目
連がしたりと、そういう人たちが交代でするときがある
んですが、そのときは獅子座へ来て、たとえ後輩であっ
ても上座へ来て、先輩は下座へ下がって聞く。
次の人が説くときは獅子座へ来て、その人は下座へ下が
って聞く。
と、そういうふうな形で説法というのは行われてきてる
ようですね。
それは現在も形式として残ってるようです。

それで青年は寒いのに着物を脱いで、鬼にここへ座って
もらって、説いて下さいと。
私は下座で拝聴しますということですね。

そのあとの句が、
「生滅々已 寂滅為楽」
生滅滅し終わりて寂滅を楽と為す。本当の楽だと。
我々の日々の楽じゃなくて、本当の心理の、仏様が説く
というところの本当の楽である寂滅だと。
全てのものは無常なんだと、年々刻々と変化していくん
だと、この生滅のほうが本当の心理なんだと、一般社会
のね。
その生滅がいずれ終わる。
生まれては滅し、生まれては滅し、それは苦なんだと。
生まれては死に、生まれては死にですから、外の事ばか
りではない。
人間は我々自身の肉体なり生命の問題ですから。
生命もその肉体の中に入ってるんですから。
生まれては死に、生まれては死に、つまり輪廻ですね。
つまり輪廻のことを言ってるんです。
その輪廻が終わったときが寂滅なんだと、その寂滅が楽
となるということです。
涅槃のことですね。
涅槃寂滅といいますね。
本当の悟りです。

みなさん悟りという言葉を使いますけれどもそういうもの
じゃない、お釈迦様がおっしゃる仏教がおっしゃる本当の
仏教の涅槃。或いは本当の悟り。
それは寂滅の境地なんだということです。
生死というのを滅し終わったときなんだということです。

もう少し具体的に言いますと、三界を解脱したということ
です。
三界を解脱しましたらもう輪廻しませんのでね。