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和尚さんの法話 『懺悔文』

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懺悔文
我釋諸造所悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

是は確か華厳経というお経の一説だったと思います。
是は和訳しますと、
我今、昔造りし所の諸の悪業は
皆無始の貪・瞋・痴に由る
この無始という言葉は、仏教では無始以来という言
葉が出てきます。何時からだと言えば、無始以来と。
無始以来というのは始めの無いということですね。
始めの無い始め。
始めの無い始めからというと永遠の過去からという
ことです。
仏教の人生観というのか人間観というのか、普通我
々の人間といいましたら、この肉体のあるものを人
間と考えるわけです。
ところが仏教では、この肉体というものはこれは有
限なんですよね。
最後は死んで、そして灰になってしまう。
ところが、霊魂は不滅ですからその霊魂というのは
肉体は別ですけど、霊界で存続していくわけです。
仏教でいうと、その霊魂のことなんですよ人間とい
うのは。
あの世にも多くの人間がいますから、この世の人間
とあの世の人間とひっくるめて人間というわけです。
然しながら厳密にいいましたら、この肉体じゃなく
て霊魂のことをいうのです。
この肉体というのはこの地上から発生してきたとい
うもので、それは科学的にも証明されますね。
人間というのはこの地球が出来て始めからあったん
じゃないですね。
進化論からいいましたらアメーバのようなものから
どんどん進化してきて猿になって人間になってと、
そんな説明をしますね。
それは肉体のことです。
ところが霊魂というのは、何時地上に発生したとい
うものではないんです、兎に角始めから有る。
無始以来からある。
不生不滅なんです。生ぜず滅せず。
生じたものは滅するけれども、生じないものは滅し
ない。

始めのあるものには終りがあるけれども、始めの無いもの
には終わりがない。
無始無終という言葉がございますね、始めが無ければ終り
が無い。始めが有れば終りが有る。
肉体には始めが有るから終りが有るんですよね。
ところが霊魂は、これは科学者が証明したわけではないで
すが、是は仏教では決まってあるんです。
始めが無い。
始めから有るんです。
霊魂というのは始めの無い始めから有るんです。
だから終りが無い。
輪廻転生は変化しながら繰り返していくけれども、何時発
生して何時消えていくというものじゃないんですよね。
始めが無ければ終りが無い。
ですから弘法大師は、一般の人々というものは、生まれ生
まれ生まれて生の始めに暗く。
その始めが何か知らないということですね。
死に死に死んで死の終りに暗し。
生まれてきた彼方も分からんし、死んでいく向こうも分か
らん、ということを戒めてます。
この無始以来というのは仏教では必ず出てきます。
無始の貪・瞋・痴。怒りと愚痴と貪欲ですね。
その怒りと愚痴と貪欲が、我々の罪を作る原因です。
怒りも無し、愚痴も無し、貪欲も無いという人は罪を犯さ
ない。
兎に角罪というものは、怒りとか愚痴、愚痴というのは因
果の道理もわきまえていないという意味です。
愚痴というのは我々はもの事を割り切らないでいてぐだぐ
だぐだぐだ言う。
あの人は愚痴の多い人だといいますが、それは言葉を愚痴
だと思ってるんですね、一般には。
本当の愚痴の意味はものの道理が分からんという意味。
仏教は客観的に真理を説いてますので、これはお釈迦様が
説いてることですから、お釈迦様の言うたことは間違いが
ないですね。
ところがそれが納得がいかない。
納得がいかないから愚痴が出る。
例えば因果の道理といいますが、今は姑さんがお嫁さんに
苛められるというそうですが、昔は姑さんが嫁を苛めた。
苛められたその嫁さんが、友達のところで家の姑さんがこ
うでとああでと。
今は姑さんが他所で家の嫁がこうでああでという。
その言葉を愚痴と皆思うんですね。
そうじゃなくて、
「過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ」
自分がこういうふうに苛められるということは、過去に苛
めてるからだと。
過去とは前世も含め過去世のこと。

その因果の道理に暗いことを、愚かなことを愚痴というの
です。
言葉じゃないんです。
因果の道理がわきまえてないから割り切れないから言葉に
なって出てくる。
それが割り切れたら、これは自分が過去に苛めたんだなと
と理解する。
するとそこで割り切れますから。愚痴は出ない。
言葉が愚痴じゃなくてその言葉が出てくる根拠。
因果の道理に暗いということを愚痴というのです。
強いては仏教の道理に暗い。
だから怒りから罪を犯すか、貪欲から罪を犯すか、愚痴か
ら罪を犯すか。
その三つが罪の根源です。
その三つさえ無くなればいいのかというと、そうじゃない
んですね。
この三つを三業というのですが、この三つが卒業できたら、
もう罪は犯さない。
罪は犯さないけど仏教は罪を犯さないだけでそれでいいの
かというとそうじゃない。煩悩というのがあるんですね。
罪というまでも犯さないけれども、心の中でもやもやと悩
む。
分かり易くいうとこれをん煩悩という。
この煩悩が有る限りは、仏教としては卒業できていないん
です。
舎利弗、目連という阿羅漢が出てきますね、千二百五十人
の大阿羅漢なりと。
こういう方々はもう貪・瞋・痴は無いし、この煩悩が無い。
この千二百五十人のお弟子さんの中の十大弟子、その中の
二人を選ぶと舎利弗と目連ということになる。
この目連が、他の宗教家から殺されるんですね。石や棒で
叩き殺される。
そのときに逃げていく者に、そっちへ行ったら私の弟子た
ちがそっちから帰って来る。
その弟子たちが私を見たら必ず復讐するからこっちへ逃げ
るようにと。
自分を殺そうとした者を安全な方へ逃がしたというのです。
普通我々だったら仕返しをしてやりたいと思うのでしょう
がね。
例えばテレビのドラマだったら血で犯人の名前を書いて残
したりしてますね。
そういう気持ちは分かりますね。
あとできっと犯人を捕まえて貰おうと。
そういう気が起こりますね。
ところが目連は犯人を安全な方へ逃がしたんですね。
それはもう煩悩が無いから。



「賓頭盧尊者」

それからこういう話もあります。
その千二百五十人のお弟子のなかに、賓頭盧という方が
居られる。賓頭盧尊者。
よく寺を訪ねると、お堂の外にお祀りされています。
それには云われがあるのですがそれはさておいて。
その賓頭盧尊者が、或る一国の国王に仕えている大臣の
息子さんです。
その息子さんが出家してお釈迦様の弟子になってる。
そして阿羅漢となった。
悟りを開いてしまったんですね。
そしてその国王が、インドは皆そうだったんでしょうけ
ど、だんだんと仏教が広まって他の宗教の信者だった人
も皆お釈迦様の信者になってきた。
他の宗教家たちが、これはなんとかしないといけないと
いうので、目連が殺されたんですね。
一方ではそうですが、一方ではもの凄く帰依するわけで
す。

ですからお釈迦様の弟子が来るというと、待っていて並
んでいてお供養しようとする。