戦場という名の場所
戦場という名の場所
黒崎つばき
全身が燃える様な暑さの中で、それとは似つかわしくない冷たい汗が背筋を流れ落ちた。握った手の平にも嫌な汗の筋がいくつも流れている。
この世に生れてからこれまで、夏を超えた数は、未だ十にも満たない。それでも毎年暴力的な熱量を運んでくるこの季節は、心底に少女を鬱々とした気持ちにさせた。
青々とした草木は茹だる熱の中で陽炎に揺れ、何となく不気味な清々しささえ漂わせている。
そう思うのは、これ程に広大な草原を目の当たりにするのが初めてである為なのか。莫大な空間が、少女に末恐ろしい様な感覚を与える所為なのか。
痛い程の日差しが、景色の輪郭を遠くの方までくっきりと浮かび上がらせて、どこへ逃げても追いかけてくる白々しい夏の日差しが恐ろしくも感じられた。
そんな強迫観念を覚えたのは、ここが初めて足を踏み入れる知らぬ地である為か。
七つの頃に此処へ越してくるまで、少女は都内に居た。
ごみごみとした入り組んだ道、高いビル、遠い空。世界はとても狭くて、同時に酷く広く感じた。
しかしここは、だだっ広い空間ばかりが目について、高い建物もない。息苦しい様な圧迫も、黒山の様な人だかりもない。
少女にとって、新しく移り住むこの町は、とても広くて自由で、どこまでも駆けていける様な、そんな高揚感さえ与えていた。
家の直ぐ横には、地平線とまではいかなくとも、どこまでも続く草原がある。あの先には、一体なにが待っているのだろう。
不思議と、少女は生まれ育った町を離れるという喪失も、ましてや悲壮も感じてはいなかった。
親しい友人もいた筈だが、何故か少女は転校という言葉に物悲しい響きを覚えなかったのだ。
未だ幼い為、人との別れの悲しみを知らなかったのかもしれない。或いは少女の性質が、そういった人との別れを悲観するという感情をあまり持ち合わせていない為であったのか。
それは数年後、分かる事になるのだが。
とにかく、この時の未だ十にも満たない少女は、諦観も悲痛な感情も覚えはしなかったのだった。
夏の一日は長い。新たな家へと引っ越してきた少女は、日がな一日、家の中を散策したり(とはいえ大した広さではない)近所の細い道を歩いたりしていた。
勿論、目の前に広がる草原にも足を踏み入れた。
それまで、少女はこれ程広い草原を目の当たりにした事はなかった。
青々とした草の上に足を踏み入れた時、何かが足元から這い上がる気配を感じた。
それは生命の息吹であったのか、夏の熱量が発生させる陽炎にも似た歪だったのか。
鼻孔をつく深い緑の香りが、深く肺の中へと流れ込んでくる。
入れ替わる。これまで身体の中に蓄積された世界の匂い、そして空気。それが今、新たな土地に漂うものへと変わっていく。
まるで生まれ変わる様な、新たな自分へと目覚めていく様な、清々しい心地に満たされた。
もはや、先ほどまで感じていた末恐ろしい様な感覚は、少女の中にはなかった。
それは子供特有の浅はかさと、物知らぬが故の期待だった。
世界は常に優しくて、真新しい事が詰め込まれた宝箱。
キラキラと風に靡いて輝く草木が美しく少女の視界を照らし出す。
降り注ぐ太陽の光を浴び、無防備に世界を謳歌する少女には、未だ世界の惨酷さを知るすべはなかった。
引っ越しを終えてから約ひと月後、少女は転校生として新たな学校へ登校した。
何故一カ月も間を開けたのか、少女は暫くその理由が分からなかった。
もしかしたら、新しい土地に馴染むまで、母が配慮してくれたのかとも思ったが、実際は少女が引っ越してきた時期、小学校は長い夏休みであった為だった。
それを知ったのはかなり暫く経ってからの事であった。
転入の前日、実は少女は事前に学校へと足を踏み入れていた。
恐らく編入の手続きであったのだが、幼い少女には理解出来ていなかった。
その際、少女は中年女性と対面している。
無論その人は学校に勤めている先生であった。女教師は少女にクラスの希望を聞いた。
一組から三組まである小学一年生の教室。そのどこを希望するかと。
少女は三組を希望した。前の学校では二組だったので単純に違うクラスを希望しただけだったが、目の前の女教師はにこやかな笑みを浮かべると、なら私のクラスだね、と優しげに告げたのだった。
翌日、少女は一人、一年三組へと向かう。新しい学校、新しいクラス、見知らぬ生徒達。
おずおずと朝の自由時間でにぎわう教室へ足を踏み入れ、席も未だ分からない少女は教室の一番後ろで行き場なく突っ立っていた。
そこへ、数人の女生徒が近づいてくる。
屈託のない子供特有の笑みを浮かべて目の前に立った女の子は、少女より幾分か背が高い。
「転校生?」
「……」
少女は、小さく頷いた。
「じゃあ友達になろうよ」
目の前に立つ女の子は、気さくな様子でそう告げると、すっと目の前に手を差し出した。
握手を求めている。それは理解出来た。けれど少女は、どうしてもその女の子の手を取る事が出来なかった。
何故そこで逡巡したのかは分からないが、少女はその小さな手を見詰めたきり、動く事が出来なかった。
少女は、どちらかと言えば引っ込み思案で、他人と打ち解ける事が苦手だったのだ。
本人でさえ、その事実を知ったのはこの瞬間だった。
硬直したままの身体。じっと女の子の手を見詰める少女の目。
今思えば、握手くらい気軽に交わせばよかったのだろうが、実際、握手を求められるなど少女の短い人生の中でこれが初めての事だった。
もしここで握手をし、この女の子と友達になれば、きっと自分はこの子が中心となる女の子特有のグループの一員になるのだろう。
そう思うと、どうしてもその差しだされた手を取る事が出来なかった。
徐々に緊迫とした空気が教室の中に充満していく。
その切羽詰まる様な雰囲気を最初に壊したのは、教室の前のドアから姿を現した担任教師だった。
ふっと教室内の張りつめた空気が解れ、皆が先生に注目するなか、少女は再び立ちつくす。
皆が教室内で割り振られた席につく中、少女は教師に手招きをされる。
「今日から皆と同じクラスになる、転校生です」
簡単な紹介をされ、名前を告げる。緊張しているのか、少女の声はかなり小さかった。
「じゃあ、あの席に座ってね」
そう言われた時から、少女の場所もまた教室の中に定められ、今日からクラスの一員となった。
転校というのは、この儀式がなければ成立しない。
教師に紹介され、席を与えられ、初めてそのクラスの一員となる。
天気の良い日だった。正面から見て右側にはベランダと、大きな窓がある。
窓の前には石造りの水道が横長に設置されていた。
見慣れない教室、見慣れない子供の顔、顔、顔。
淡々としたペースで進んでいく授業の内容はあまり覚えていない。
初日は殆ど誰とも口を聞いていない様に思える。ただ、下校時間になると家の近い子が一緒に下校してくれた。
その時になってやっと少女は少し口を開いた様な気がする。
黒崎つばき
全身が燃える様な暑さの中で、それとは似つかわしくない冷たい汗が背筋を流れ落ちた。握った手の平にも嫌な汗の筋がいくつも流れている。
この世に生れてからこれまで、夏を超えた数は、未だ十にも満たない。それでも毎年暴力的な熱量を運んでくるこの季節は、心底に少女を鬱々とした気持ちにさせた。
青々とした草木は茹だる熱の中で陽炎に揺れ、何となく不気味な清々しささえ漂わせている。
そう思うのは、これ程に広大な草原を目の当たりにするのが初めてである為なのか。莫大な空間が、少女に末恐ろしい様な感覚を与える所為なのか。
痛い程の日差しが、景色の輪郭を遠くの方までくっきりと浮かび上がらせて、どこへ逃げても追いかけてくる白々しい夏の日差しが恐ろしくも感じられた。
そんな強迫観念を覚えたのは、ここが初めて足を踏み入れる知らぬ地である為か。
七つの頃に此処へ越してくるまで、少女は都内に居た。
ごみごみとした入り組んだ道、高いビル、遠い空。世界はとても狭くて、同時に酷く広く感じた。
しかしここは、だだっ広い空間ばかりが目について、高い建物もない。息苦しい様な圧迫も、黒山の様な人だかりもない。
少女にとって、新しく移り住むこの町は、とても広くて自由で、どこまでも駆けていける様な、そんな高揚感さえ与えていた。
家の直ぐ横には、地平線とまではいかなくとも、どこまでも続く草原がある。あの先には、一体なにが待っているのだろう。
不思議と、少女は生まれ育った町を離れるという喪失も、ましてや悲壮も感じてはいなかった。
親しい友人もいた筈だが、何故か少女は転校という言葉に物悲しい響きを覚えなかったのだ。
未だ幼い為、人との別れの悲しみを知らなかったのかもしれない。或いは少女の性質が、そういった人との別れを悲観するという感情をあまり持ち合わせていない為であったのか。
それは数年後、分かる事になるのだが。
とにかく、この時の未だ十にも満たない少女は、諦観も悲痛な感情も覚えはしなかったのだった。
夏の一日は長い。新たな家へと引っ越してきた少女は、日がな一日、家の中を散策したり(とはいえ大した広さではない)近所の細い道を歩いたりしていた。
勿論、目の前に広がる草原にも足を踏み入れた。
それまで、少女はこれ程広い草原を目の当たりにした事はなかった。
青々とした草の上に足を踏み入れた時、何かが足元から這い上がる気配を感じた。
それは生命の息吹であったのか、夏の熱量が発生させる陽炎にも似た歪だったのか。
鼻孔をつく深い緑の香りが、深く肺の中へと流れ込んでくる。
入れ替わる。これまで身体の中に蓄積された世界の匂い、そして空気。それが今、新たな土地に漂うものへと変わっていく。
まるで生まれ変わる様な、新たな自分へと目覚めていく様な、清々しい心地に満たされた。
もはや、先ほどまで感じていた末恐ろしい様な感覚は、少女の中にはなかった。
それは子供特有の浅はかさと、物知らぬが故の期待だった。
世界は常に優しくて、真新しい事が詰め込まれた宝箱。
キラキラと風に靡いて輝く草木が美しく少女の視界を照らし出す。
降り注ぐ太陽の光を浴び、無防備に世界を謳歌する少女には、未だ世界の惨酷さを知るすべはなかった。
引っ越しを終えてから約ひと月後、少女は転校生として新たな学校へ登校した。
何故一カ月も間を開けたのか、少女は暫くその理由が分からなかった。
もしかしたら、新しい土地に馴染むまで、母が配慮してくれたのかとも思ったが、実際は少女が引っ越してきた時期、小学校は長い夏休みであった為だった。
それを知ったのはかなり暫く経ってからの事であった。
転入の前日、実は少女は事前に学校へと足を踏み入れていた。
恐らく編入の手続きであったのだが、幼い少女には理解出来ていなかった。
その際、少女は中年女性と対面している。
無論その人は学校に勤めている先生であった。女教師は少女にクラスの希望を聞いた。
一組から三組まである小学一年生の教室。そのどこを希望するかと。
少女は三組を希望した。前の学校では二組だったので単純に違うクラスを希望しただけだったが、目の前の女教師はにこやかな笑みを浮かべると、なら私のクラスだね、と優しげに告げたのだった。
翌日、少女は一人、一年三組へと向かう。新しい学校、新しいクラス、見知らぬ生徒達。
おずおずと朝の自由時間でにぎわう教室へ足を踏み入れ、席も未だ分からない少女は教室の一番後ろで行き場なく突っ立っていた。
そこへ、数人の女生徒が近づいてくる。
屈託のない子供特有の笑みを浮かべて目の前に立った女の子は、少女より幾分か背が高い。
「転校生?」
「……」
少女は、小さく頷いた。
「じゃあ友達になろうよ」
目の前に立つ女の子は、気さくな様子でそう告げると、すっと目の前に手を差し出した。
握手を求めている。それは理解出来た。けれど少女は、どうしてもその女の子の手を取る事が出来なかった。
何故そこで逡巡したのかは分からないが、少女はその小さな手を見詰めたきり、動く事が出来なかった。
少女は、どちらかと言えば引っ込み思案で、他人と打ち解ける事が苦手だったのだ。
本人でさえ、その事実を知ったのはこの瞬間だった。
硬直したままの身体。じっと女の子の手を見詰める少女の目。
今思えば、握手くらい気軽に交わせばよかったのだろうが、実際、握手を求められるなど少女の短い人生の中でこれが初めての事だった。
もしここで握手をし、この女の子と友達になれば、きっと自分はこの子が中心となる女の子特有のグループの一員になるのだろう。
そう思うと、どうしてもその差しだされた手を取る事が出来なかった。
徐々に緊迫とした空気が教室の中に充満していく。
その切羽詰まる様な雰囲気を最初に壊したのは、教室の前のドアから姿を現した担任教師だった。
ふっと教室内の張りつめた空気が解れ、皆が先生に注目するなか、少女は再び立ちつくす。
皆が教室内で割り振られた席につく中、少女は教師に手招きをされる。
「今日から皆と同じクラスになる、転校生です」
簡単な紹介をされ、名前を告げる。緊張しているのか、少女の声はかなり小さかった。
「じゃあ、あの席に座ってね」
そう言われた時から、少女の場所もまた教室の中に定められ、今日からクラスの一員となった。
転校というのは、この儀式がなければ成立しない。
教師に紹介され、席を与えられ、初めてそのクラスの一員となる。
天気の良い日だった。正面から見て右側にはベランダと、大きな窓がある。
窓の前には石造りの水道が横長に設置されていた。
見慣れない教室、見慣れない子供の顔、顔、顔。
淡々としたペースで進んでいく授業の内容はあまり覚えていない。
初日は殆ど誰とも口を聞いていない様に思える。ただ、下校時間になると家の近い子が一緒に下校してくれた。
その時になってやっと少女は少し口を開いた様な気がする。