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猫が導く恋

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「こんばんは」
 餌にがっついていた猫たちが、急にぱっといなくなって、何事かと思っていたら、そんな風に声をかけられて、田崎弘は慌てて振り返った。
「猫、好きなの?」
 人懐っこい笑顔。仕立てのいいスーツに、趣味のいいネクタイ。夜食用に買って来たのか、近所のコンビニの袋からは、カップラーメンらしい容器が透けて見えていた。それに、コーラの大きなペットボトル。
「あなたに関係ありません」
 弘は、猫たちが食べ残した餌を、ざらっと植え込みの陰に捨て、空になった皿を、脇に置いてあったキャットフードの袋と一緒に持って立ち上がった。そのままさっさと立ち去ろうとする。
「ねえ。毎晩こんな時間にごはんあげてるの?」
 こんな時間。弘が自分の部屋を出たのは、午後十時きっかりだった。確かに夜も遅い時間だけれど、空気はまだ生ぬるく重たい。
「あなたには、関係ないと言ったでしょう」
 弘はもう一度そう言って、今度こそ後ろを振り向かずに、その場から立ち去った。本当はドキドキと鳴っている胸を、必死で押さえながら。
「明日の晩、俺も一緒していい?」
 声が追いかけてくるけれど、弘はオートロックを解除して、自動ドアの中に滑り込んだ。エレベーターは、さっき弘が降りてきた時のまま、一階で停まっている。急いで乗り込んで、五階のボタンを押す。九階建てのマンションの真ん中、五〇六号室が、弘の部屋だった。
「ただいま」
 誰も答えてくれる人のいない玄関で、そう呟いて、靴を脱ぐ。
 おかえり。そう返してくれていた優しい人は、まっすぐ進んだ先のリビングの、ダイニングボードの上に飾られた写真立ての中だ。弘はその写真を、そっと伏せた。
 ペット禁止のこのマンションに越してきて、もう四年になる。律儀に振り込まれるローンの半額に、去って行ってしまった人を思い出すけれど、幸せだった日々は戻ってこない。
 エアコンの効いたリビングから、そっと向かいのマンションを見つめる。ぱっと灯りが点いて、「あの人」の姿が浮かび上がる。ネクタイを引き抜き、スーツの上着を脱いで放り投げ、そしてその姿は奥へ引っ込んだ。
 弘はキッチンへ行ってキャットフードの袋を床に置き、皿を洗う。残した餌を、戻って来て食べてくれるだろうか。そう思いながら洗った皿を拭いて、キャットフードの袋の脇に置いた。
(今日は少しでも書かなきゃ)
 弘は、リビングのエアコンを切って、仕事部屋に向かった。小さな四畳半の部屋の中で威圧感を漂わせているのは、二つの大きな本棚だった。資料用の本と、自分が楽しむために買った本。まだ少し余裕があるけれど、そろそろ整理しないといっぱいになってしまう。
 窓辺に置かれた広いライティングデスクの隣には、複合機のプリンタが乗っている。その電源を入れることなく、弘はライティングデスクの上のノートPCを開いて、電源を入れた。
 テキストエディタを起動して、書きかけの原稿を開く。弘は【矢崎雅弘】というペンネームで、ほそぼそとライトノベルを書いている小説家だった。デビューしたのは六年前。ファンタジックな不思議な世界観で、そこそこ売れた。でも今は、スランプの真っただ中だった。
(ペンネーム、変えようかなあ)
 次々と新しい作家が出ては消えて行くライトノベルの世界では、ペンネームで覚えられている可能性は低かったし、そうして悪い理由はどこにもなかったけれど、変える理由を担当編集者に伝える勇気は、弘にはなかった。
 もともと弘一人で始めた作家活動ではなかった。恋人が出すプロットとも呼べないような思いつきを広げて、文章に起こす。だからつけたペンネームは、二人の苗字と名前をミックスしたものだ。
 それを見るたびに落ち込んでしまう弘には、作家活動を続けるのは拷問のようなものだった。
 結局、それまでに書き上げた文章を読み直しただけで、続きは一文字も書けなかった。資料になるようなサイトを開いたり、本を広げたりしただけで、夜は明けてしまう。弘は虚しくエディタを終了させて、twitterにログインしてみた。こんな時間に呟いている人もいないから、当然数時間前のログが目に飛び込んでくる。
 その中に、気になる一文を目にして、弘は固まってしまった。
【夜遅く、野良猫たちにごはんをあげている可愛い人がいたから声をかけたら、猫と一緒に逃げて行っちゃった。でも、明日の夜も行ってみるつもり】
 タイムスタンプは七時間前。
(まさかそんな、偶然に決まってる)
 世の中に、自宅では飼えずに野良猫に餌をやっている人間など、ごまんといる筈だ。それに、自分は可愛くなんかない。床屋で散髪したのは、もう何か月も前の話でぼさぼさだし、冴えない黒縁の眼鏡をかけて、流行とは縁遠い、ユニクロの安売りTシャツにまとめ買いしたジーンズをはいた、どこにでもいる夏休みの高校生のようだ。
 いや、もしかしたら、最近の高校生の方がよほどマシな恰好をしているかもしれない。高校生と同じなのは、百六十八センチなどという身長ぐらいだ。そっちももしかしたら、抜かされているかもしれない。
 自分がフォローしているのは、数種類のbotと、こんな自分の書く文章を楽しみにしてくれている読者ぐらいで、その中に「あの人」がいる可能性なんて、限りなくゼロに近い。
 弘が昨夜見つめていた「あの人」。リビングの窓から時折見かけたり、ゴミを出す時に偶然一緒になったりするだけでときめくその人は、スマートなエリートサラリーマンのようで、とてもライトノベルなどを手にするような人種には見えなかった。
 弘は軽くため息をついて、タイプした。
【おはようございます。といっても僕はこれから寝るんですが。今日も暑くなりそうですね。皆さん、熱中症にはお気をつけて】
 それだけ書くと、ブラウザのタブをすべて閉じて、PCをシャットダウンし、ぱたんと閉じてからキッチンに向かった。今日は、ビン、缶、ペットボトルの収集日だ。数週間ためたせいで、四十五リットルの袋はいっぱいになっている。出しておかなければ後悔するのは自分だ。
 眠い目を必死に見開いて、ガシャガシャと音を立てて袋を手に部屋を出る。夏の朝は早く、もうじわじわと日中の暑さを予感させるような空気が、弘を包んだ。
 エレベーターが上がってくるのを待って、ゴミと一緒に乗り込み、一階に降りる。夜間のゴミ出しは禁じられているはずなのに、ゴミステーションには、もう三袋ぐらい、缶ビールの空き缶などのゴミがあった。
 ついでに敷地の隣にある小さな広場を覗く。植え込みの陰に捨てた猫用のドライフードは、きれいに無くなっていた。
 ほっとして部屋に戻り、ミネラルウォーターをグラスに一杯飲んでから、寝室に向かった。莫迦みたいにだだっ広いダブルベッド。その隅にもぐりこんで、目を閉じる。窓のないその部屋は、灯りを消せば真っ暗になるので、昼夜逆転している弘でも、ちゃんと眠れる。
(起きたら洗濯して、買い物に行かなきゃ)
 そう思いながら、弘は夢のない眠りに引きずり込まれていった。



 柔らかい電子音に弘が目を覚ますと、部屋の中は蒸し暑くて、じっとりと寝汗をかいていた。
(そっか。エアコンつけないで寝ちゃったんだっけ)
作品名:猫が導く恋 作家名:藤崎葵