命、咲く。
「ってことは、お前の仲間でも名前が分からない奴とかいるのか?」
「もちろん! それが花族では当たり前だからね」
驚いた。自分の友達や知り合いで、名前を知ってる奴はほとんどいないのだそうだ。やはり、人間とは違う所がたくさんある。
「あ、あなたの名前はなんていうの?」
「……お前が教えたら、俺も教えるさ」
「な、なにそれ!」
「ははは」
軽く笑ってみせると女はむーっと頬を膨らませて納得がいかないとでも言うような表情をした。
相手が教えないならこちらも教えない方がいい。そうでないと、一気に離れてしまうような、そんな気がした。
そうしてまた数ヶ月。冬はあっという間に過ぎて行った。
暖かい日差しに、いきいきとした草木。風はほんのりと花の香りを漂わせている。
半年以上、ただ話をしていただけの花族の女の季節でもある、春がきた。森を行く道にはたくさんの花。森へ入れば桜の花がほぼ満開の状態で俺を出迎えた。
その桜の木の下に、見慣れた女が一人。俺を見つけるやいなや、そいつは嬉しそうに頬を緩め近寄ってくる。
「春よ!」
「分かってるよ」
「見て! 私の体のも綺麗に咲いてる!」
そういって女は俺の前でくるり、と回ってみせた。確かに、今まで見てきた中で一番いきいきと花が咲いているように見える。それに、一番綺麗な花々が咲いていた。
「私が言った通りでしょ?」
「そうだな」
「ふふっ」
素直に頷いてやると、女は笑顔を浮かべてくるくると回った。そんな様子を見て、思わず俺まで嬉しくなった。
半年以上もこうして会ってきた。すぐに終わってしまう関係だと思っていた。それでいいと思っていた俺だったが、今は言える。
「ずっと、このままでいられたらいいな」
俺の呟きが聞こえたのか、女は足を止めて、どこか驚いたように見つめてきた。
その綺麗で透き通った目を、俺も見つめ返す。女がうん、と軽く頷いて呟いた。
「私も、このままでいたい」
そうしてまた笑ったその女の顔はどこか寂しそうに、俺の目に映った。
女は俺に近寄ると突然抱きしめ、ぎゅっと服を掴む。
「ど、どうした?」
「……明日、私、名前を教えるね」
色々といきなりすぎて頭が混乱しそうになるのを堪え、俺は女を見下ろした。顔をうずめたままの女の声は、いつもの明るい声だ。
「だからね、明日は必ず会いに来て。雨が降っても、嵐が来ても。絶対に、会いに来て」
「…分かった」
その日はこのやりとりだけだった。
今日は少し用事があるのだという女が早く帰った後、俺は一人薬草採りをしてから帰路に着く。
あの時の女の寂しそうな笑顔が、一日中頭から離れなかった。
約束の日。天気は驚くほどの快晴だった。空を見上げれば雲ひとつなく、ただ青く広ろがっている。
いつも通りに森を歩き、いつも会う場所へと足を向けた。
相変わらず桜は気持ちのいいほど満開だ。
その下に女はいる。昨日と同じ場所で待っていたことに、俺は思わず笑みを零す。
右手で花びらを掬うようにしたまま立っている女に、俺は早足で近づく。
女の真正面に行った俺は、その光景に絶句した。
女の体に咲いていた花の茎や植物の蔓。それらが大量に体へと巻きついていて、女はその中で目を閉じほんのりと笑みを浮かべたまま、息をしていなかった。
体に巻きついた花は満開で、昨日よりも格段に綺麗に咲き誇っている。
俺の頭は一気に働きを失った。
昨日まで元気に笑ってたじゃないか。今の季節を誇らしげに語って聞かせてくれてたじゃないか。
そっと震える手を女の頬へと移動させる。当たり前のようにその肌は冷え切っていた。
その刹那、俺の目から涙が零れた。今更のようにこいつがもう自分と言葉を交わすことはないのだという実感が体を駆けぬける。
ふと目線をはずして、女が差し出していた手を見る。そこには一枚の紙が乗せられていた。
その紙を取って広げ、そこに書かれている文字を読む。読み終えた俺はぐっと唇を噛みしめて、優しく女を抱きしめた。
花族が"花を咲かせる"ということは、その命の終わりを意味するの
私、あなたの名前を聞かないまま花を咲かせてしまうけれど
ちゃんと、あなたに名前を伝えるわ
私の名前はフルール
可愛い名前でしょう?
「フルール、フルール……」
桜が散る中、俺はフルールの耳元でその名前を呼び続けた。
もう動かないはずのフルールの微笑みが少しだけ嬉しさを含んだように見えたのは、桜の花たちだけが知っている。