珈琲日和 その17
そりゃ君が使うばっかりで、ちゃんとガーコを綺麗にしてやらないから、恨まれても仕方ないような気もするけどねと僕は思わず出掛かった言葉をとっさのところで飲み込みました。余計な事を言ったら面倒臭くなりそうだ。
「違うわ。私はちゃんと元の位置に戻したのよ。それに、あの湯船の隙間からさっき何か音が・・・」
「わかったわかった。いいから頭拭くから」
面倒臭くなった僕は彼女を鏡に向かわせました。湯船の隙間ってそりゃ排水溝の音だろうな。
「本当よ。そんな気がしたの。きっと昔見た怖いテレビみたいに今に手とかが出てきたりするのよ。きっと」
「怖がりのくせにどうして怖いテレビなんて見た?」
「子どもの頃なんてわからないじゃない。興味本位で見ちゃったのよ。お陰でこうして大人になっても悩まされる羽目になってるわ。最悪よ。どうしてあんな怖いものなんて作る人がいるのかしら。怖がらせて何をしたいのかしら。理解出来ない。あなたが読んでいた本もそうよ。だからこうしてタオルで視界が遮られる事にすら恐怖を覚えるようになっちゃったじゃない」
だから、僕に頭を拭かせたのか。やれやれ。僕も子どもの頃は少し怖がりだったから気持ちがわからなくもないけど。それにしてもおかしい。彼女とはついこの間妖怪の実写版映画を一緒に観に行った筈。その時にはすごく面白かったと言ってはしゃいで珍しく映画のパンフレットと妖怪百科まで記念に買っていたくせに。
「君、この間一緒に妖怪の映画観てたじゃないか。あれだって似たようなもんだよ。どうして本のあらすじ読んだだけで怯えるの? それに、僕の読んでいる本はホラーでもあるけど、サスペンスでもあるんだよ。内容だって全部作り物じゃないか」
「妖怪は平気よ。可愛いじゃない。私は正体がなんだかよくわからない得体の知れないものが怖いの。人間の怨念とか恨みとか憎しみなんてまさにその例よ。幽霊もそう。心安らかに死んだらそんなものでなんて残らない。そう思わない? 何処かの誰かの可哀想な何かが、見るも無惨な形で現れたり、怖さを引き立てる為にわざと残酷に演出したり、そんなの面白がるものなんかじゃないわ。少なくとも不幸になった誰かがいる事には変わりないんだから。それに作り物って言うけど、人間だし、そうなったっておかしくない内容じゃない。実際に幽霊だっているし、人の死に方だってたくさんあるわ。どんな人間だって殺されていい人なんてきっといない筈だもの。悪人だって元々は誰かの生んだ赤ん坊だったのよ」
「何言ってんだ。そんな事言ってたら物語にならないだろう? それに、面白がるのも怖がるのも同じ事だと僕は思うけどね。結局はその可哀想な何かに対して遠目で見ているだけじゃないか。怖ければ見なければいいだけだよ」
どうしてこんな事で喧嘩をしなければいけないのか全く意味が分からなかった僕は彼女の髪を拭いていたバスタオルの手を止めると、彼女を置き去りにしてリビングに戻ってソファに寝っ転がったのです。彼女も過敏になっていましたが、僕も相当苛々していたのです。もう放っとこう。そう思い、本を開いてしばらく読み耽りました。本の主人公が陰気な雨が降りしきる中、呪われていると言われた村にある一件の古ぼけた民家を訊ねるところでした。腐り掛けの引き戸をやっとの思いで開けると、そこには、長く乱れた髪が顔に被さった白い着物を着た女性の遺体が天井から吊り下がって・・・「ねぇ」不意に目の前に本の中から飛び出したような髪が乱れて顔にばっさりと被さった白い女性が現れ真っ赤になった目を片方見開き僕を呼んだので、僕は驚いて思わず大声を上げて飛び起きました。と、思ったら、それは白いパジャマに着替えた泣いたらしい彼女が僕が途中で放棄した髪のままで静かに側に立っていたのでした。
「ごめんなさい。怖くなくなるまで一緒にいて欲しいの」
なーんだと僕は動機を抑えながらも、動揺を隠すようにあくまで冷静な表情を取り繕いました。彼女に対しては何と言ってあげても無駄だと思いましたが、彼女の素直な気持ちに黙っているのも悪いと思ったのとでどっちつかずな、まるで豚の鳴き声のようなおかしな返事をしてしまったのです。それを聞いた彼女が余計不安になったようで、ねぇ大丈夫? あなた本当にあなたなの? だとかを頻りに聞いてきたのです。いいから、君は髪を梳かしなさいと、平然を装って彼女に言ってはみたものの、なんだか親にでもなった気分でした。それにしても雨が振っているような音が何処かでしているような気がします。まさか。今夜の天気は晴れなんだと思って窓辺を見遣ると、あまり見た事がない大きくて赤錆色をした月が不気味に取り巻く雲の中、闇に浮かんでいました。やれやれ。これじゃあまるでホラーの世界みたいじゃないか。僕にまで彼女の怖がりが伝染したのか。
「僕は豚になんてなってないし、取り憑かれてもいないよ。大丈夫だから、君はここに座っていてくれよ。大丈夫だから。何も起りはしないから。僕は風呂に入ってくる」僕は彼女を座らせて立ち上がりました。
「待って。どうして私をそうやって独りぼっちにさせるの? しかもこんな恐ろしげな本と一緒に」
「本は何もしない。君に襲いかかったりしないよ」
「一緒にいて。お願い。せめて私が眠るまで」ってそれじゃあ、僕はまるまる何にも出来ないじゃないかと今にも泣きそうな顔で悲願する彼女を見ながら、僕はため息をついたのです。まったく。彼女にはいっつも甘いんだ僕は。結局、彼女が寝入るまで側で手を握ってあげていたのでした。
無邪気な寝顔を見ながら、その頬に刻まれた一筋の傷跡を指でなぞってみました。仕方ない事なのかもしれない。彼女は子ども時代を満喫する事なく、色々な重荷を背負わされてきたのだから。それこそ、彼女の言っていた得体の知れない憎しみによってこの傷はつけられてしまったのだから。その得体が知れない恐ろしいものを実際に体験してしまった彼女が怖がるのも無理はない気がする。このくらいは仕方ない事なのかもしれないと思ったのです。しかも唯一の甘えられて頼れる存在の母親があんな形でいなくなってしまったのだから。このくらいは付き合ってあげようと決心してベッドを離れようとしましたが、彼女の手が思いの他がっしりと掴まれていて離れないのです。なんて事だ。このままじゃ、こんな汗臭いまま彼女の隣で寝る訳にはいかない。僕は必死に彼女の手を緩まさせ、とうとう手を解いたのですが、それと同時にぐっすり眠っていた彼女がむっくりと起き上がったのです。又例の如くバサバサの髪の毛で、真っ白い顔をして、さながら死んでいた死人が蘇りました的な風情で。
「・・・ねぇ、何処行くの?」
僕のその話を聞いたマリさんは笑いに笑いました。涙目になってマスカラまで直しに行った程に。
「なんだか、もうどっちが怖がっているんだかわかりゃしないじゃない。あーおかしい」
「何言ってんですか。僕は怖がってなんていないですよ」僕は胸を張って答えました。
「あら。だってこんな昼間っから開くような本じゃないでしょ。それは」
さすがマリさんは鋭いところを突いてきます。僕は笑いながらまぁそうなんですけどねと返しました。