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暴走ポテトの秘密

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「さあ……」と半ば怒りさえも湧き起こる隙間さえないほどに、陽子さんも思いのほか不思議に思っていた。しかし、この近所どこで訊いても同じような返答ばかりである。
「誰が乗っているのか見ようにも、ちょうど朝日が反射して見えないのよ……」
 しかし、今回、田中さんの息子は暴走ポテトが端にそれるまで車と真正面で向き合っていたのだから男女の区別はできたはずである。
「ねぇ、そう言えば、誰が乗っていたか見えた? やっぱり、怖い男の人かしら……」と陽子さんが訊いた。
「女の人だったよ――」と少年は悪びれずに答えた。
 その情報は瞬く間に近所中に広まった。どうでもいいと聞く耳を持たない人も多かったが、買おうとして失敗した人たちなのだろうか、眉間に皺を寄せて暴走ポテトの悪口を影で言っていた。
「女性だなんて信じられます、奥さん」
「いいえ、信じられませんわ」
「全く、最近の若者は、これだから困りますわ」
 私は全く根拠のない意見に反発する気にもなれなかったが、今回の件に関しては暴走ポテト側に情状酌量の余地はないように思えた。事実を事実として捉えるのなら、近所の人たちは迷惑を被っている被害者とも言えるからだ。
 しかし、このまま問題を放置しておけば、近所迷惑の度を越えて周辺の平安を乱しかねない。風が吹けば桶屋が儲かるという具合に、我が家にもお門違いの怒りが舞い込んでくるかもしれない。
「ああ、どうしたものか」と私が机に頬杖をつきながらため息をついていると、後ろで健太が頼り甲斐のある確かな声で「僕に任せてよ」と言った。それに気付いて振り返ると、彼は満面の笑顔で立っている。
 この子に任せてよいのだろうか。いや、任せてはいけない。
「健太、大丈夫だよ、おじいちゃんがなんとかするからね」
 続けて優しい口調で「これは大人の事情だからね」などと諭すようにも言ってみるが、孫はあまりこの道理を理解していないようで「うん、大丈夫。僕がなんとかするよ」と言って聴かなかった。
 最初はそれが不安だったけれども、よくよく考えてもみれば、この子にできることと言ったら、お使いくらいなものだった。それすらまだ危ういかもしれない。そんな子に一体なにができるのだろう。私は思わず心配しすぎた自分を嘲笑した。――それから割合に天気のよい日だったために、部屋の窓を少しだけ開けて、冬枯れの暮れかかる夕日に心を奪われながら一句詠むことにした。

孫のため 石焼き芋を 買いたいな

 要は買うことができれば、それでいいのである。そのような結論に達し、自分は少しその場で横になることにした。

 しばらくすると、廊下から伝わってくる肌寒い風が脇の下をすうっと通り抜けた。無意識のうちに寒いと思い、身体を縮こまらせて背中に掛けてあった毛布を顔のあたりまで被せた。しかし、毛布など被せた覚えがなかったので、ふと、はっきりとしない意識のまま身体を起こすと、思いのほか部屋は暗く、障子を通して見ることのできる外の景色もいまでは夜闇が忍びつつあった。
 それで自分が先ほどまで寝ていたことに気が付いた。
 薄暗い中、壁に掛けられた柱時計を見てみると、時刻は夕方の五時半だったが、最近は日没が早いため、もう外は暗かったのだ。
「アナタ、起きましたか」と廊下から歩いてきた妻が言った。
「ああ」と私はまだぼんやりとした頭で答えた。
 部屋の窓が閉まっている。毛布が掛けられている。これは全て妻のおかげなのだと察した。ありがたい。しかし、そう言えば、健太はどうしたのだろう。姿が見えないが――
「健太はいるか」
「先ほど私が帰ってきたときには隅から隅まで家中暗くて、誰もいないようでしたわ」
「部屋で寝ているのかもしれないな」と私は言いつつ起き上がった。
「アナタがご存知だと思っていましたが」
 妻は電気を点けた。二人のあいだに、わずかな緊張が走った。
「いいや、私も知らないうちに寝ていた」
 妻との会話を切り上げ、健太のいる部屋へと行ってみることにした。寝ているかもしれないので、そっとドアを開けてみたものの、誰もいなかった。それから台所やリビング、トイレなど見て回ったが、健太はいなかった。
「いないんですか」と妻は不安げに訊いた。
「ああ」と私も妻の声の調子に合わせて頷いた。
「外に遊びに行ったのかもしれませんね」と妻は外を見ながら言った。しかし、健太は小学二年生なのである。男子とは言え、決して活発的な方ではなく、見慣れない夜道をひとりで歩くことを特別嫌う子であり、近くにいればいいが、もし街の迷路に踏み入れてしまったら、ひとりでは帰ることができないだろう。妻もこのことは熟知していた。ただ、遊びに行くという軽い気持ちで誰かと一緒にいるのであれば、若干でも安心だからこそ、そう思いたかった気持ちがあったのだろう。それは自分も同じである。私が眠っている間に出掛けたことは間違いないだろうが、そのときはまだ日が出ていた。思い立ったが吉日というのが健太の専売特許であり、焼き芋屋を見つけようと安易に飛び出して行ったのだろう。現に、健太の靴がない。これは私の監督不行き届きが原因だった。
「お前は夕食の準備をしていてくれ。私が健太を探しに行こう」
「分かりました」
 表面では冷静を装っても、どこかぎこちない私の動作に妻も不安を隠せなかった様子だった。
 私は自分の分と健太の分の上着を持って家を出た。
 外は想像していた通り、家の中よりも二度ほど温度が低いのではないかと思われた。横風が吹いているというのも寒さの原因かもしれない。昼間に感じられた暖かさは、もうどこかに行ってしまった。
 私は玄関を閉めてから、ふと、立ち止まって考える。
 まず、第一の選択は左か右かということだった。家の前の道路はしばらく曲がる小道もなく真っ直ぐに横へと伸びている。左に行けば、近いうちに狭い道へと入り、突き当たるとそこは行き止まりだ。私はいま仕事先から帰ってくる陽子さんにその場所周辺を探してもらうように連絡をした。
 一方で、私は右の道を行くことにした。というのも、道に沿って直線に歩いていくと駅に突き当たるのだ。その周辺は人の数も多いし、それになにより車の数が多い。背の低い子供が懐中電灯ひとつない状態で歩いているとすれば、つい最悪の事態を想定してしまう。
 健太の性格的に、道端で見掛けたスイセンやカンツバキに見とれて道草を食っていることもあり得るし、なにより健太の歩く速度は大人のそれと比べると、さほど速いものではない。いくら夕方頃に出掛けていたとしても、そう遠くない距離にいることは推測できた。
 私は吹いてくる冷たい寒風に反発するように、ひたすら歩いた。
 青白い街灯が左右に道なりに並んでいる。十五分ほど歩いたが、特別代わり映えのしない景色ばかりが続く。それと言うのも、このへん一帯の住宅街はこれといってめぼしい建物もなく、淡々と住宅の屋根が並ぶだけという、子供にとっては分かりにくい作りになっているからだ。しかし、だからこそ複雑に入り組んだ碁盤の目のような道に気まぐれで入るようなことがあれば、本当に行方が分からなくなってしまう。
作品名:暴走ポテトの秘密 作家名:葵夏葉