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無口な彼女

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無口な彼女






 季節は春だった。ぼくは朝の電車の中で出会った彼女の髪に注目していた。いつも満員電車で、ぼくは少し離れた場所に立ち、毎朝彼女のうしろ姿を観ていた。実にきれいな長い髪で、それを観る度に感心していた。

 やはり時々一緒に同じ電車に乗る友人の一人が、彼女について教えてくれた。

「彼女はテレビのシャンプーのコマーシャルに出演しているんだ。髪だけなんだけど」
「マジかよ。そうか、あのきれいな髪をぼくもテレビで観ていたんだなぁ」
ぼくはそのコマーシャルを録画し、帰宅すると毎日それを眺めた。

 軽くしなやかなさらさらのロングの髪は煌めきながら、ふわっと、画面の中で舞った。その美しい髪に一度でいいからぼくは触れたかった。だからいつも彼女に接近しようと試みたが、満員電車の中では難しい課題だった。

 ぼくは友人に多額の融資をしていた。間もなく友人は彼女の名前とメールアドレスとを入手し、ぼくに教えてくれた。友人の兄はテレビ局に勤めていた。彼女の名前は、浜風麻衣だとわかった。

<はじめまして。ぼくは中川祐樹と申します。今朝の白いワンピースはあなたに似合っていました。素敵でした>
ぼくはドキドキしながらそんなメールを送信した。それに対する返信は、いつまで待っても届かなかった。

<ぼくは絵を描くのが大好きです。あなたも絵を描くのが好きだったらいいな、と思っています>
そのメールに対する返信も、やはり届かなかった。

 ぼくはメールで自己紹介を繰り返した。ストーカーのように執拗に、否、まさにその行為はストーカーそのものだった。

犯罪者として身柄を拘束されるのではないかという危惧にさいなまれながら、だが、ぼくはあの素晴らしい彼女の髪を忘れることはできなかった。私服の警官が痴漢を現行犯逮捕するテレビ映像を見ると、ぼくは彼女に接近するのだけはやめた。

 まだ猛暑の日が訪れることはあったものの、虫の声が既に秋になりつつあることを教えていた。晴天の霹靂というのはこのことだろうと、ぼくは思った。あの彼女、浜風麻衣さんから待望のメールが着信したのだった。

<あなたは中川祐樹さんですね。浜風麻衣です。わたしは無口ですよ。お話するのが得意ではありませんけど、それでもいいでしょうか。彼氏いない歴二十四年です>

 ぼくは勿論大喜びだった。ぼくは彼女いない歴二十二年。年上の相手も悪くないと思った。
<静かな女性は嫌いではありません。無口な女性も嫌いではありません。歳下ですが、よろしくお願いします>

 友人に報告すると、彼は複雑な表情を見せた。
「麻衣さんはとにかく無口だからな。お前も喋りまくるほうじゃないし、お通夜のようなデートになるぞ」
「だけど、彼女の絵を描かせてもらうことになったから、問題ないよ。あんまり喋られたら、却って描きにくいからな」

 晴天の土曜日の午後、或る公園の中でぼくたちは会うことになった。ぼくはスケッチブックを携えて出かけた。
待ち合わせ場所の公園の中の噴水に近づいて行くと、髪だけではなく、脚も非常に美しい麻衣さんの、あのうしろ姿が眼に入った。ちょっとスリムな彼女は、噴水を凝視めているようだった。

「ごめんなさい。中川です。待たせてしまいましたか?」
 そう声をかけたぼくは、次の瞬間気を喪った。振り向いた彼女には口がなかったから。

                  了
作品名:無口な彼女 作家名:マナーモード