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ぼくらのふねはワルツをおどる  1.ゆずれないもの

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秦くんって、ボート部だったんだ




「今日はダメ?じゃあ、明日は?」
 ええと、とまごつくと彼女が胸に握りしめていた手がきゅっ、と握り込まれた。コンガンする乙女。この前のテストで書けなかった漢字を思い出した。答えの漢字を見ても形がよく分からなくて解答用紙に思い切り顔を近づけていたら、俊樹に思い切り笑われたっけ。適当でいーじゃん、なっちゃん。腹を抱えながら俊樹がバツのついた空欄に描いたのは、なぜかかわいらしいうさぎの絵だった。ああいう絵、女子は好きそうだな。
「ねぇ、秦くん、」
 現実から逃げようとする思考が引き戻される。きっとこの教室に彼女と二人きりだったら、どきどきもしたんだろうけど、彼女を囲むように佇む女子三人のせいで、ときめきよりも圧迫感がひどい。無言の視線に急かされる。なんだか自分がひどいことをしているように思えてきて、ますますうまく言葉が出ない。
「あの、明日も部活があるから……あぁ、朝とかなら大丈夫だけど」
 彼女の顔がくしゃりと歪むのを見て慌てて言い足したら、左隣の女子に鼻で笑われた。さっきから気づいていたが、この圧迫感のほとんどは左側からきていた。クラスの中でもリーダー格の女子だった気がする。名前は残念ながら覚えていない。ってかさぁ、と彼女は肩に掛かる茶髪をもてあそんだ。
「秦くんって、ボート部だったんだー」
 へらへらと笑う茶髪女子に、俺ははぁ、となんとも間抜けな返事をした。
「超文化系草食系って感じなのに。意外」
「わかるーわたしも!映画部か書道部だと思ってた」
 カン高い声を上げたのは、後ろにいたもう一人の茶髪女子だった。そーそー!と二人は向かい合って手を叩いて頷き合った。仲のいい双子みたいで、俺にはさっぱり見分けがつかない。
「だよねぇ。ぜんぜんボートって感じしなーい」
「あって卓球部か弓道部だよね」
「わかるわかるー!ってかこの学校にボート部とかあったんだ」
「そうそれ一番同感」
「もう、何言ってんの。夏紀くん、なんかごめんね」
 盛り上がる二人と、とても申し訳なさそうな一人で俺はどんな顔をしたらいいかわからなくて、中途半端にしか笑えなかった。茶髪女子たちはやけににやにや笑い、彼女はすこし怒ったよう俯いたけれど、なんだか楽しそうに見えた。そんな彼女たちの目配せを、俺はずいぶん遠くで眺めているような気分になった。早くここから抜け出したい。のんびりできる余裕はそんなにない。ちらりと壁側の時計を見て、こぼれそうになったため息をぐっと飲み込んだ。
「ねぇ夏帆はしってた?ボート部」
 茶髪女子は身を乗り出して右端の女子に聞いた。それまで口を開いていなかった黒髪の彼女は、三人とは少し離れた場所でにっこりと笑った。  
「知ってたよ。わたし帰り道よろず橋通るから。でも秦くんがいたのは、知らなかったな」
 へー、いがーい、と盛り上がる女子たちは好奇の目で輝いていた。それを見ているとなんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになってきた。彼女たちは大きな誤解をしている。今彼女たちの頭の中には、小柄ながらも大きなオールを自在に操る細マッチョな自分がいるんだろう。当たり前だ、ボートは漕ぐものなのだから。一般的には。だからこそ俺の中のもやもやはどんどん大きくなって、蛇足だとは知りつつ付け足してしまう。
「…まぁボート部って言っても、今は三人しかいないし、俺はボート漕いだりしないけど」
「なにそれ、ますます謎なんだけど。やっぱ卓球部なんでしょ!」
「ちがうちがう。俺は舵手なんだ。コックスって、言うんだけど」
「だしゅ?こっくす?」
「そう、舵取り」
「なんか、コックさんみたいだね」
 黄色い笑い声で教室がいっぱいになった瞬間に、教室のドアが勢いよく開いた。女子たちが一斉に振り返る。そこに現れた彼を見て、俺は目を丸くした。彼はそれに気づいて、ほんの少しだけど唇の端を上げた。でも目が合ったのは一瞬で、すぐに視線は女子たちに移り、その顔に満面の笑みを浮かべた。
「なんだ、カノじゃん。なんであんたこっち来てるの?あんたのクラスは隣でしょ」
 カノと呼ばれた俊樹は、開けた扉にそのままもたれかかると、手に持っていた自転車の鍵を指でくるくると回した。
「隣のクラスに来ちゃ悪い?いやー、たまたまカナちゃんの声が聞こえて、のぞきこんだら小っちゃい男子囲むお嬢さん方が見えたからさ。またカナちゃん男の子いじめてあそんでるなーって」
「はぁ?またってどういうことよカノ。しかもこれはくるみが」
「うわぁーちょっとやめてよカナちゃん!」
 にわかにドタバタした女子たちを俊樹は面白そうに眺めていた。ひそひそ話が終わった後、茶髪女子は場を仕切りなおすように小さく咳払いをした。
「とにかく、いじめてなんかないわよ。私たちは純粋に秦くんに用があったの。んで、あんたみたいなちゃらぽら男に用はないの。ほら、さっさと部活に行きなさいよ。バスケ部ならもうとっくの昔に出てったわよ」
 ちゃらぽらという言葉に俺は思わず吹き出しそうになった。俊樹はえー、と不満げに声を上げた。
「ちゃらぽらはひどくね?俺、わりと紳士だよ。あとね、バスケ部ってのは自称だから。ごめんね」
「ほら、そういうわけのわかんないこと言うところがちゃらぽらだって言ってんの!」
 もう、と茶髪女子が腕を組んで視線を逸らすと、見ていた女子たちはくすぐったく笑った。こういうことができるから俊樹は人気者なんだろうな、と俺はぼんやり思った。
「へいへい。じゃあちゃらぽらは帰りますよーっと。ほら、行こうぜ夏紀。じゃあまたねみなさま」
 俊樹はそれだけ言うと、するりと教室を出ていった。完全に観客側にいた俺はすっかり出遅れて、一斉にこちらを振り向いた女子たちの視線に固められた。なぜ?と彼女たちの視線問うていたけれど、もうそれに応える体力はなかった。荷物をまとめ、俊樹に引っ張られるように教室を出ていこうとすると、待って、と聞こえた。
「ごめん、もう行かなきゃだから。今日家でまとめて、明日の朝見せるからさ。誘ってくれたのに、ほんとごめん」
 早口でまくしたて、返事も待たず一目散に出口を目指す後ろ側で、茶髪女子の「あの二人、友達だったの?」と心底不思議そうな声が聞こえた。