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Higher and Higher (前)

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 高千穂が厨房の方に引っ込むのを確認して、恵介はあらためてメニューを開いて、ブルーマウンテンコーヒーの説明書きを読んでみた。
『優れた香りに快い酸、円熟した風味を持つコーヒーです』
 酸ってなんだ。やめておけばよかった。飲めそうにもない。
 数分後、カップとケーキを二つずつのせたトレーを持って、高千穂は再び恵介の正面に座った。ケーキもおごりだから食っていいぞ、と言ってテーブルの上にトレーを置く。
 勉強する気など失せて、恵介は参考書などを鞄にもどしてしまっていた。これでは、ここに来た意味がない。
 コーヒーには手をつけず(というかつけられず)、ケーキを口に運びながら、チラリと高千穂をうかがった。慣れた手つきで、カップに砂糖を入れてかき混ぜている。
 恵介の視線に気づいたのか、高千穂は砂糖の入った瓶を俺に差し出して、「入れるか?」ときいてきた。
「入れる。あ、ミルクも。お前のそれは、なんだよ」
「ココア」
「ふーん……」
「代えてやらないからな」
「誰もそんなこと言ってねーし」
 ブルーマウンテンコーヒーとやらは、スプーンに山盛り二杯の砂糖を入れ、色が変わるまでミルクを流し込んで、ようやく飲めるものになった。恵介の試行錯誤を、高千穂は店に入ったときの恵介と同じように、ニヤニヤしながら見守っていた。
 それからは、二人とも黙っていた。店内に流れるよくも知らないクラシックが心地よい。音楽の切れ間に聞こえるプロペラの静かな羽音も、また耳に優しかった。
 窓の外に目をやれば、大通りに車や人がせわしなく行き交っているのが見える。まるで、この店の中だけ、外とは時間の流れ方が違うようだった。高千穂が働くのにこの店を選んだ気持ちがわかる気がした。
「部活、やめるんだって?」
 そろそろいいかな、と恵介は思い、フォークでケーキの上のクリームをすくいながら、話を切り出した。恵介のはショートケーキで、相模のはチョコレートケーキだった。好みを考慮してくれたのだろう。
 恵介のその問いに、高千穂は顔を上げた。今度はしっかりと目を合わせてくれる。
「うん」
 答えはごくシンプルなものだった。たぶん高千穂の中では、それはもう過ぎた話なのだろう。人にどうこう言われようとも、いまさら変えるつもりはないらしい。あっけらかんと肯定したその声音には、そういう意志が感じられた。
 ならば、なんで自分には一言も相談してくれなかったのか。恵介はそんな女々しい恨み言を、ケーキといっしょに口に押し込んだ。しつこく言っては、鬱陶しがられる気がしたのだ。
 そんな恵介の心中を知ってか知らずか、高千穂は指でフォークを回しながら、話し出した。
「俺さ、大学行く気、ないんだよ」
「……え? なんで?」
 突然に始まった話に面食らいながらも、恵介は訊き返した。高千穂が話し出したのだから、自分に聞いてもらいたい話なのだろう。恵介は、心持ち身を乗り出す。
 玉水高校は、県内でもそれなりに名のある進学校だ。少なくとも、テスト一週間前に学校を休んでまでバイトしている生徒はいないだろう。
「金がかかるだろ」
「金? 親はなんて言ってるんだ」
「親は行けって言ってるよ」
「だろうな。じゃあ、なんで」
 高千穂はフォークを回すのをやめて、皿の縁に置いた。恵介の顔をのぞき込むようにして、じっと目を合わせてくる。恵介はその強い視線に、一瞬ひるんだ。口に持っていこうとしたケーキを落としそうになる。高千穂は決心したように口を開いた。
「女になろうと思うんだ」
「……はあ?」
 カラーン。ケーキをつけたまま、フォークが床に落ちた。ケーキを迎えようと「あ」の字に開いた口から、気の抜けた声がでる。
 カウンターの奥でコップを拭いていた涼香が、こちらをふり返った。恵介は慌ててフォークを拾い上げて、胸の前で握り込む。今こちらを見られるのはまずい気がした。
「性転換手術って、ものすごい金がいるんだよ。だから、大学行くくらいならその金を使おうと思って」
 思考がついていかない。男になる? 性転換手術? なんの話だ。
 しかし、高千穂の態度は至極まじめだった。口を一文字に引き結んで、まっすぐに恵介を見ている。
「……なんで?」
 なんと返したらいいのかわからず、恵介はとりあえず、素直な疑問を口にした。高千穂はココアを飲み干して、音を立てることなくカップをソーサーに戻す。
「好きな人ができたから」
 恵介はあ然とした。好きな人ができた。高千穂からそんな言葉を聞く日が来ようとは。
 高千穂はモテる。愛想がいいわけでも優しいわけでもないのに、なまじ顔がいいので、すごくモテる。女子としては、そんな寡黙(しゃべるのがめんどうくさいだけ)で孤高(人見知りが激しいだけ)な感じがいいらしい。
 中学の時からコロコロとつき合う女子を代えては、恵介をあきれさせていた。それが、高校に入ってからピタリとやんだ。どうしたのかと訊けば、「女が勝手にひっついてきただけで、俺は今まで一度も女を好きになったことがない」と言って、総一郎に「なんやそれ! ムカつく上にうらやましい!」とキレられていた。
 先週のバレンタインでも、浦部・総一郎・恵介が三つ以内(全部義理)に収まる中、高千穂は一人だけ十個以上(全部本命)のチョコレートをもらっていた。「こんなにいらない」と言って、やはり総一郎を怒らせていたものだ。
 そんな男に、好きな人ができた。それは、恵介にとって、小さくない衝撃を与えた。しかしその前に、もっとずっと大きい衝撃に襲われている。足元に落ちたままのケーキの存在を意識した。
「お、俺もなんだ」
 恵介の言葉に、高千穂が目を丸くする。恵介は言葉が足りなかったことに気づいて、あわてて「あ、好きな人ができた方な」とつけ加えた。高千穂の顔が曇ったように見えるのは、気のせいだろうか。
「も、もしかして、高千穂の好きな人って、あの涼香さんって人か?」
 高千穂が好きになる人物なんて、想像がつかなかった。だが、高千穂の肩は目に見えて下がった。
「……ちがう。涼香さんは、ここのマスターの娘さん」
「じゃあ、誰が……」
「俺が好きなのは、おまえ」
 すっと、フォークの先が、恵介の方に向けられる。高千穂が、フォークで恵介を示していた。
 カラーン。フォークがまた床で跳ねる。
恵介はフォークを取り落とした手はそのまま胸の前に、上体を左に大きくかたむけた。ふり向いて確認してみるが、後ろのテーブルには誰もいない。
 再び前を向いた恵介を、高千穂は見たことのない顔だと評した。そりゃぁ、見たことないだろう。男に告白されるなんて、初めてのことなのだから。
作品名:Higher and Higher (前) 作家名:春田一