Higher and Higher (前)
丸山Ⅰ
恋とは、居直り強盗のようなものだ。自分の中で、ふとした拍子に相手への好意を見つけたとたん、「好意」は身をひるがえして「恋愛感情」へと姿を変える。たぶんそれを、世間一般では、「恋に落ちた」と言うのであろう。
恵介は、ピンクのシャープペンシルがサラサラと文字を書き込んでいくのをながめながら、そんなことを考えていた。
「それで、ここを合計したら答えが出るの。わかった?」
「……あ、はい」
居直り強盗が恋に落ちたんですね。はい、わかりました。
「ウソだぁ。ホントにわかったの?」
「え……わっ、いった!」
ぼんやりとあいづちを打ったら、するどい痛みが額に走った。デコピンをされたのだと気づいたのは、怒った顔をした千里と目が合ってからだった。
「ちょっと。忙しい受験生をかり出しといて、聞いてませんでしたってのは、ひどいんじゃない?」
「や、ちゃんと聞いてましたよ」
「ふーん。じゃあ、そこの問題やってみなさい」
あわてて問題集に視線を落とした。えーと、黄色くて皺のあるエンドウ豆と緑色の丸いエンドウ豆を交配したら、F1ではすべて丸くて緑色のエンドウ豆になった。それを自家受精するとF2の遺伝子型は……どうなるんだ。わからない。
「…………」
「ほら、やっぱり。わかってないんでしょう」
肩を落として、恵介は降参のポーズを取った。手の平を上に向ける。千里はため息をついて、顔の横でシャーペンのヘッドをカチカチと二回押した。
「もう一回だけ説明してあげるから、次はちゃんと聞いてなさいよ」
「お願いします」
恵介が頭を下げるのを確認して、千里はまたシャーペンを恵介のノートに走らせ始めた。すばやく遺伝子型の表を書いていく。
恵介はそれを見ながら、またしても思考を計算式とは違う方向に飛ばしていた。書かれていく文字よりも、それを書いている白い手に目がいく。
癖なのだろう、シャーペンを握った指の中で、小指だけが立てられて紙面をなぞるように添えられていた。楽器をやっているので、爪はいつも短く切りそろえられている。髪が揺れて、見え隠れする横顔がもどかしい。
「これとこれがホモ接合になるから、二をかけるの。わかる?」
「はい」
今度はてきとうにならないように気をつけながら、返事をする。あいかわらず、問題はまったくわからないのだが。
そこで、千里は顔の横に垂れていた髪を指ですくって耳にかけた。恵介からは、千里の横顔がよく見えるようになる。白い頬が、高い室温のせいか、赤く染まっていた。
居直り強盗が出た、と恵介は思った。二年間そ知らぬ顔をしていた気持ちが、むくりと頭をもたげたのだ。
恵介と千里が並んで座っているのは保健室のテーブルで、校内では他に見ることのない赤いチェックのテーブルクロスがひかれていた。さきほどから、ストーブの上に置かれたヤカンが、シュンシュンと湯気を吹き出し続けている。外はもう暗く、窓からは野球部が片づけをしているのが見えた。
「あっ」
ポキッと音を立てて、シャーペンの芯が折れた。千里は「もー」と言いながら、またヘッドをノックする。顔を上げて、にらむようにシャーペンの先から芯が出るのを見ていた。
恵介は、シャーペンをつかんだ千里の小指だけが立っているのに気づいて、思わず「あ……」と声を漏らしてしまった。
「なに。どうかした?」
「なんでもないっす」
居直り強盗がこちらをふりり返る。恋に落ちた瞬間だった。
作品名:Higher and Higher (前) 作家名:春田一