みずいろ
それから、あっという間に鑑賞時間が終わり、あれよあれよという間に気づいたらチューニングも本番前のサントレも終えて舞台袖に向かっていた。
狭い通路に楽器を、てっぺんの渦巻きをぶつけないように。
階段で滑ってコケたりすることがないように。
自然と忍び足のようになる。一歩一歩、着実に。
すれ違う他校の団体が現れるとその途端、挨拶のシャワーが降ってくる。
それは、普段学校で教室移動の時に後輩や先輩に会った時のような「こんにちはー」「こんにちはー」「こんにちはー」…みたいなものでは済まない。文字通りそのまま『挨拶のシャワー』状態なのだ。そりゃもう口の筋肉フル回転で、親戚の前にいるときの比じゃないくらいに営業スマイルをキープして、
こんにちはーこここんにちこんこんにこんにちはこんにこんにちはーこんこんちゃー
…
吹奏楽部の人間じゃない人が聞いたら、きっとこんな風に聞こえることだろう。こちらからすれば決してふざけているわけではないのだけれど。
こんにちはラッシュが終わった頃に、わが中学の吹奏楽部は舞台袖に到着した。
私が立っている位置からだと、今本番をしている団体が隙間から見えるらしい。
高校生だろうか、マーチングの衣装のようなかっこいいスーツを着こなし、流行りのポップスを奏でながら楽器を上に向けたり斜めに向けたりしている。木管組が立ち上がり、左右にスイングする。かと思うと今度は、ひな壇の金管組が楽器を吹いたまま首をぐるぐる回す。
最後に低音組が、というよりはコントラバスとチューバが、その大きな楽器を上に持ち上げる。
どっと拍手がわきあがる。
この手のパフォーマンスはよくあるが、こんなに間近で見たのは初めてだ。興奮してしまう。
そしていよいよ、次は私たちの番である。
わたしたち、草壁(くさかべ)中学校 吹奏楽部の演奏する曲は、毎年恒例の『ふるさと』と『Disneys Magic Kingdom』だ。
『Disneys Magic Kingdom』―通称『マジキン』は、私が初めてこの演奏会に出るときになかなか上手くならなかった、という意味で思い入れの強い曲でもある。
練習の時なかなか上達せず、低音パート全体の合奏のときにリズムも弓を動かす向きも全然合わない私を見かねてパートリーダーが私を教室から追い出し、できるようになるまで廊下で個人練をするように命じた。
その際、例の御薗先輩の後輩にあたる私の先輩も同行させられ、コントラバス2人して廊下での練習を強いられたのである。この屈辱と言ったらもう、なかった。自分が落ちこぼれである故の悔しさだけでなく、何も悪くない先輩まで巻き込んでこんな思いをさせていることに対する申し訳なさも相まって本当に気が重かった。
そんなストレスフルな環境で、私が楽器を練習する理由はもはや「練習しないと先輩に怒られるから」「一刻も早くできるようにならないと先輩が恐いから」というネガティブなものでしかなかった。いや、これだけ追い詰められてポジティブでいられるはずがなかった。それほど強いメンタルは生憎持ち合わせていないし、そもそも当時の私はマイナス思考だったのだ。
結局、その年の演奏会ではマジキンをうまく弾くことができず、本番が終わってステージの電気が暗くなった直後、小声で先輩に「ピッチ合わせろって言っただろ」と怒られてしまった。かなり入念に調弦したんですがね、ごめんなさい、先輩。
しかし、今年はもう違うのだ。先輩はもういない。私もマジキンを演奏するのはこれで最後だ。ふるさとは定期演奏会でもやるけど。
『―――それでは、どうぞ』
アナウンスが流れると、顧問が指揮棒を構え、みんなを見回す。
銀色に輝く指揮棒が高く宙(そら)に吊り上げられた次の瞬間。
静かで優美な和音が会場に響き、演奏が始まった。