シークレットガーデン
映像の中の結城くんは驚くほど軽やかに宙返りを決めていく。体操という競技は、彼の性格をそのまま表しているようだった。シンプルで、軽やかで、美しい。地上の重力にとらわれない彼の前髪。彼の姿に大勢の人が感動している。彼のファンで、筋力が弱っていく病気の少年がいる。車いすの少女がいる。かつて故障して選手への道をあきらめた体操の先生がいる。みんな彼に少しずつ救われている。彼に接する人の多くが彼に救われている。結城くんの演技を見ていると、それを思い知らされる。心を打たれるのだ、単純に。祝福された人とは、こういうものなのかと。それと同時に、私と夕方ふざけあって笑った結城くんの顔を思い出す。彼の不在。少し不安になる。夜を独りで過ごすような気持ちになる。でも、何かが決定的に欠落した私たちは、日常のぽっかり空いた落とし穴に慣れっこになっている。
肇ちゃんの眼鏡の黒縁が、蛍光灯を反射した。肇ちゃんはどんな気持ちで結城くんを待っているのだろう?
「……今日ね、先輩におかしいって言われちゃったよ」
「どうして?」
振り向いた肇ちゃんはごくいつも通りの顔をしていた。
「私だったらぁ、彼氏がルームシェアとか許せなーいとかゆって」
花田さんのように語尾を伸ばしたら、何その口調、と肇ちゃんに笑われた。
「許せないの?」
肇ちゃんは優しく聞いた。
「そんなわけないじゃん。私、結城くんめっちゃ好きだし」
「じゃあいいじゃん」
「でも、私たちの関係ってなんていうんだろうね?」
「名前はどうでもいいんだよ。……それで生きやすいなら」
肇ちゃんは伏し目がちに言った。
楽な生き方とはなんだろう。
予定通り一週間後の夜、結城くんは帰ってきた。ドアを開けて開口一番、「勝った」と言った。本人はいたって真顔で、あわてたのはむしろ私たちのほうだった。
「か、勝った?」
肇ちゃんはどもっていた。
「うん」
「一番?」
「そう」
「どのやつ?」
「鉄棒と床と吊り輪」
「三つも!」
私は悲鳴のような声を上げていたんだと思う。
「そう、三つ」
「総合は?」
「総合は二番」
「えっなんで!?」
「全種目二番の人いた。板橋さん」
「あー板橋さんか……」
「えっ、でもでも、すごいじゃん! 今まで一個も板橋さんに勝てたことなかったんでしょ?」
「うん。めっちゃうれしい。最後飛んだときね、めちゃめちゃきもちかった。なんかふわっって体重なくなったみたいになって、全然いつもと違う風に見えた。サイコーの気分だったよ」
丁寧に作られた肇ちゃんの夕飯をものすごい勢いでかきこんだ後、結城くんは眠い、寝たい、といってごろりとカーペットの上に横になり、そのまま眠ってしまった。きっと疲れていたのだろうが、そんなところで寝たら具合を悪くしそうだ。かといって起こすのは忍びなかった。私たちはマットレスを何とかして下に敷いてやり、上に布団をかけた。電気もまぶしいだろうから消した。窓の外から明るい月の光が差していた。
大仕事を終えた達成感のまま、私たちはマットレスの横に並んで結城くんの寝顔を見ていた。結城くんの寝顔は例に漏れずあどけなかった。すうすうと寝息を立てて、たまにぷすっ、とかいう変な音が出るのが赤ちゃんみたいだった。長いまつげが頬に影を落としていた。
「結城くん、すごいね」
私はポツリとつぶやいていた。
「ああ、すごいな」
肇ちゃんは優しい顔をしていた。結城くんの寝顔が愛おしかった。肇ちゃんの横顔もまた。
愛はたくさんある。そう強く感じる。彼らと過ごしていると何かが強く胸に去来する。
私は浩紀を愛する。浩紀と過ごした日々を愛する。彼の凛とした生き方を愛する。私は結城くんを愛する。結城くんの何ものにもとらわれない心を愛する。結城くんの宙に舞う美しい体を愛する。私は肇ちゃんを愛する。肇ちゃんの深い瞳の色を愛する。肇ちゃんの茫漠とした悲しみのそばにあってなお柔らかな笑顔を愛する。私はこのアパートの小さな部屋を愛する。そして彼らを愛する私を愛する。愛は多様だ。それらは一つとして同じものはない。朝、おはようと言った近所の女の子、花田さんのポニーテール、夕方の混雑した電車。池袋の古風な喫茶店のパフェ、駅前の主婦が下げていた買い物袋。アパートに向かう坂ですれ違った自転車の老人。浩紀と一緒に亡くなった四人のボランティア、結城くんのファンで近く息を引き取る少年。写真の中の肇ちゃんの弟。すべてがそこにある。そこにあるすべてが真実だ。
かつて、理不尽に何かを奪われ、それでもこうして生きている。ここで生きていける。押し寄せる恐ろしいほど愛おしい何か。悲しみは私たちのそばにいて、いつも私たちを待っている。過去は常に私たちとあり、決して離れることは出来ない。私や肇ちゃんは日々戦っている。この世界の不条理をうまく受け入れることが出来ないから、何かをせずにはいられないのだ。
私たちの愛は確かに不完全かもしれない。お互いの穴を埋めあうような関係かもしれない。だけど私たちはここで生きていける。
愛は一つじゃない。
私は肇ちゃんの頬に触れた。
私たちは薄暗い部屋の中で触れるだけのキスをした。肇ちゃんの唇は温かかった。人の体温の温かさだった。
私は結城くんが戻ってきたことを本当は安堵していた。
そしてこれからも安堵し続ける。
愛は一つじゃない。そう信じたい。
「……信じるさ」
愛おしい人の声が胸に響いた。
誰も信じなくても、せめて私たちだけは。
作品名:シークレットガーデン 作家名:坂井