風のごとく駆け抜けて
スタートすると同時に藍子は先頭に出る。
「まったく藍子ったら、やってくれるわね!」
スタートして10秒も経過しないうちに藍子の思惑が分かってしまった。
本当に、なんて言うことをしてくれるのだ。
「あれ? この組、通過タイムが異様に遅いかな」
先頭が300mを通過した所で晴美がストップウォッチを見て驚く。
そう、それこそが藍子がやろうとしたことなのだ。
「あの、なんでこんなに遅いのに誰も前に出ないんですか?」
梓が不思議そうに聞いて来る。
これがどこの誰か分からない選手が先頭を引っ張っていたのなら、すぐに別の人が先頭に出ていただろう。
先頭に立ったのが、あの城華大付属の山崎藍子と言うことなら話は別だ。
正直、2年連続で都大路のアンカーを走っている藍子のことを知らない人間なんていないだろう。
そんなランナーを相手に、予選からわざわざ藍子の前に出て、積極的に勝負しようなんて人間はいない。
誰だって思うはずだ「ここはとりあえず、山崎藍子のペースに合わせて付いて行き、ラスト勝負で決めれば、それで良いんだ」と。
現に400mの通過タイムは1500mに換算すると5分を少し切るペースだった。
藍子は3000mを9分20秒程度で走れる。
つまり単純計算、1500mを4分40秒ペースだ。
それなのに、今は3000mの通過よりも遅いタイムで走っている。
いくら決勝のために体力を温存したいからと言っても、これはやりすぎだろう。
とは言え、藍子のレース展開は、自分の知名度なども計算に入れた、見事な走りとしか言いようがなかった。
「とてもじゃないけど、この組からプラスは期待出来ないかな」
晴美の発言はもっともだ。
もちろん、そんなことはレースをしている本人達も分かっている。
だからこそ、ラストスパートに向けてお互いの様子をみながら牽制しあっているだ。
スタンドから見れば、その様子が手に取るように分かる。
「まぁ、朋恵にしてみれば、実に良いペースですし」
そこは紘子の言う通りだと思う。
朋恵は周りが牽制しながら、様子をうかがっている中で懸命に走っていた。
このペースが丁度自分の力を出し切って、やっと付いて行けるペースだったのも良かったのだろう。
きっと朋恵の中では、少しでも前へ、一つでも上の順位へと言う思いでいっぱいだったに違いない。
だからこそ、ラスト250m付近で、先頭集団が今から始まるラストスパートのために位置取りを始め、少しだけペースが落ちたのに気付かなかったのだろう。
牽制しあう選手を尻目に朋恵は今までと変わらぬペースで淡々と走り続け、そのまま先頭へと出てしまった。
スタンドから見ていると、朋恵が出た瞬間、他の選手が慌てたのがはっきりとわかった。
朋恵からすれば、がむしゃらに走っていただけだろうが、他の選手から見ると不意打ちのラストスパートに感じたのかもしれない。
山崎藍子は一瞬で反応し、すぐに朋恵を抜き去ると、スピードを切り替えラストスパートをかける。
だが、その後ろにいた集団がいけなかった。
予想外の所でスパートをかけられたと勘違いした選手達が、遅れまいと一斉に動き出すも、ペースが遅かったため団子状態になっており、数名の選手の脚がもつれ転倒が起きてしまう。
朋恵は真後ろで起きたハプニングに気付くことなく、必死で走り続ける。
さすがに藍子のスピードには付いて行けず、単独2位だ。
ただ、転倒を免れた選手も朋恵を必死で追い、その差はグングン縮まって来る。
ラスト100mになった時点で朋恵を含め3人が集団となっていた。
「頑張れ朋恵! そこで我慢したら決勝に行ける」
「朋恵ちゃん! 負けちゃだめだよぉ」
「朋恵先輩ファイトです」
みんなでありったけの声を出して必死に朋恵を応援する。
やはり力の差があるのか、ラスト50mの地点で朋恵は単独4位となってしまう。
しかも5位の選手は真後ろにいる。
しかし、朋恵も意地を見せた。必死に腕を振り、かなりきついのだろう、若干首を振るようにしながらもそのまま4位を死守する。
藍子のレース展開、選手の転倒、色々な要素が絡まったのは事実だ。
それとも運も実力のうちなのだろうか。
なんと、朋恵が初出場の1500mで決勝へ進出したのだ。
私達スタンドでの応援組は、まさにお祭り騒ぎと言っても良いくらいの騒ぎになっていた。
あまりの騒ぎ様に由香里さんから「ちょっと……。とりあえずみんな落ち着いて」と言われる始末。
だが帰って来た当の本人は、騒ぐどころか顔を真っ青にしていた。
「あの……。無理です。今ので体力を使い切りました。それにプラスで残った人達の方が、私より速いです。私、決勝進出メンバーの中でダントツで一番遅いタイムですよ? 圧倒的最下位になりますよ」
必死に訴える朋恵の声は震えていた。
そんな朋恵の頭を、永野先生がポンポンと軽く撫でるようにして叩く。
「別に最下位でも良いじゃないか。私は那須川がダントツで最下位でも何も言わないぞ? それよりも那須川。今までの練習成果が出たおかげで決勝に進出したんだ。胸を張って走ってこい」
頭を叩いた後で、永野先生はとびっきりの笑顔で朋恵に言う。
その言葉を聞いて朋恵も、「はい。分かりました」と一言だけ言い大人しく座る。
その顔は何かの決意が固まったような、強い意志のようなものが感じられた。
そんなやり取りから3時間後。1500mの決勝が始まる。
作品名:風のごとく駆け抜けて 作家名:毛利 耶麻