風のごとく駆け抜けて
「こら澤野、しっかりして」
頭の上で木本さんの声がした。
目を開けると木本さんが私を覗き込んでいる。
ハッとなって起き上がろうとして、強烈な目まいに襲われた。
「無理しちゃダメだって。まったく、いったいどうやったら、あんなスパートが出来るよの。大丈夫? 取りあえずもう一度給水して」
木本さんが渡してくれたスポーツドリンクを口に含むと、その冷たさで記憶が蘇って来た。
気合いを入れ直した私は、登りを利用して、前の2人に追いつき、そのまま下りでトップに立ってみせた。
さらには次の登りでもう一度加速をして突き放す。
登りが得意な自分の長所を生かし、大学生相手に必死で走り、逃げ切ってみせたのだ。
ただ、ラストは手が痺れ、呼吸もかなり上がっており、ゴールすると同時に倒れたらしい。
「まったく。あんた別に部員でも無いくせに、なんでそんなに必死で走ってるん?」
小宮さんがあきれ顔で私を見る。
後ろの岡本さんも理由が聞きたいというような顔をしていた。
私は、さっき思ったことをそのまま話す。
するとなぜだか、全員がすごく感心していた。
「いやぁ〜半信半疑だったが永野も立派に先生やってるんだ」
牧村さんまでもが、何度も大きく頷いた。
「チームのために走るってこと、思っててもなかなか出来ないんだよな。うち達もまだまだだな。ほんと澤野はすごいな」
岡本さんの一言を聞いて、他の部員も何度も頷いていた。
タイムトライが終わって昼食をとり、一度食器を片付けてまた席へと戻ってくる。
「今から、さっき10位に入ったメンバー以外にも監督枠で記録会に出場出来るメンバーが発表されるのよ。これはその年によって人数が違うのよ。0の時もあれば5人の時もあるし。だいたいが、合宿の走り全体を見て決めるの」
私の横に座っている木本さんが説明を入れてくれる。
牧村さんが、まずは合宿の所見を述べ、これから先の日程を説明する。
この後、荷物をまとめて大学に帰るのだ。
ちなみに記録会に出場する私は、陸上部の寮に宿泊することが決まっている。
しかも木本さんの部屋だ。
そしていよいよ、監督推薦枠のメンバーが発表される。
ここで初めて気付いたのだが、明彩大から記録会に出場するメンバーは全員5000mを走るらしい。
つまり、3000mに出場するのは私ひとりと言うことだ。
牧村さんによって発表されたのは3名だった。
食堂のあちこちで落胆のため息と歓喜の声が上がっていた。
「それと澤野、あなたは3000m障害ね」
一瞬、自分の聞き間違いかと思い、思わず聞きなおしてしまう。
「うん? 3000m障害よ。オリンピックや世界陸上で見たこと無い? この記録会では女子の3000m障害もやるのよ。参加者少ないけど」
「いえ、それは知ってますけど永野先生は3000mと……」
「大丈夫。永野からは3000mを走らしておいてくださいと言うだけで、障害の有る無しについては何も言われてないわ。まぁ、合宿での走り方を見ての判断だから。悪い結果にはならないって」
そう言う牧村さんの顔はこの合宿で一番の笑顔になっていた。
その後、明彩大へと全員で向かったのだが、やはり私は牧村さんの車で行く羽目になり、大学に着いた時には半分気を失いかけていた。
その次の日の午前。
明彩大のトラックで行われる練習は3つのグループに別れていた。
1つ目は、記録会に出る人達の調整メニュー。
2つ目は記録会に出ないメンバーが合宿の仕上げとして距離走を実施。
そして、3つ目は私だ。
私は木本さんとマンツーマンでの練習となっていた。
木本さんが、パソコンでコピーしたのであろう紙を読みながら私に3000m障害について説明してくれる。
「まず3000m障害は、8レーンの外側に水濠がある場合、トラックは1周422、96mとなります。つまり約40mとトラック7周ね。その間に障害物を28回、水濠を7回飛ばなければなりません。その障害の高さは女子で76、2cm。これは女子の400mハードルの高さと一緒だよ。えっと、どこまで読んだっけ……。あ、水濠は長さ約3、6mとなります」
グランドの隅に座って私は真剣にその話を聞く。
そもそも3000m障害は、県高校総体で男子が走ってるのを何度か見たことがあるだけだ。
それも、その時は自分が走ることになるとは思っていなかったので、そこまで真面目に見ていなかった。
それを昨日木本さんに話したら、動画まで準備してくれていた。
昨年の世界陸上、女子3000m障害決勝だ。
「イメージは掴めるだろうけど、あまり参考にならないかもしれないわよ」
そう言って、木本さんはノートPCの動画を再生する。
それを見て木本さんの言わんとすることがすぐに分かった。
世界のトップレベルになると障害に脚を掛けずに飛び越して行くのだ。
さらには水濠も思いっきり遠くへ飛び、水に脚がほとんど入っていない。
少なくとも、私にこんなすごいことは出来そうになかった。
「まぁ、まずは障害の高さに慣れましょう。と、言うわけで400mハードルの高さに合わせてみました」
一台のハードルが私の前に置かれる。
そう言えば、高校になってからは体育でハードルを飛ぶこともなく、部活でも使用しないため、随分と久々にハードルを見た気がする。
「これが、3000m障害と同じ高さよ。実際に飛んでみて」
木本さんに言われ、後ろに下がり助走をつけて飛ぶ。
久々にしては綺麗に飛べたと自分では思った。
木本さんはどう思ったのだろうか。
気になり、飛び終わってすぐに木本さんの顔を見る。
「へぇ。牧村監督が3000m障害にした理由が分かった気する。あなた、随分器用に飛ぶのね。驚いた。じゃぁ、次は……」
木本さんがハードルの少し向こうに横線を引く。
「これが水濠の終わり、約3、6mのラインよ。もう一回、今度はなるべく遠くに飛ぶように意識して飛んでみて。まぁ、実際は脚を掛けることになるだろうから、今よりは楽と思うけど」
私は言われた通り、遠くに着地することを意識してもう一度飛ぶ。
さっきよりは確かに遠くに飛べたが、これを毎周出来るかと言われると疑問が残ってしまう。
まぁ、そこは木本さんが言う通り、障害に脚を置いて飛べば違うのだろうか。
「あ、それから障害が近づいて来たら、速度を落として脚を合わせるんじゃなくて、加速して合わせることを心掛けてね。本音を言うと水濠以外はどちらの脚でも飛べるようになればベストなんだろうけど……。さすがに今回は無理ね。えっと、澤野は左利きだから、右脚で地面を蹴って、左脚を障害物に乗せるようになるわね」
私は言われた通りに加速してハードルへと向かう。
最初の2回は上手く行かなかったが、コツを覚えると案外簡単に出来た。
と言うよりは、昔似たようなことをしたことがある気がしていた。
ただ、それが何かは思い出せない。
作品名:風のごとく駆け抜けて 作家名:毛利 耶麻