*レイニードロップ*
*
「じゃあ、今日は何人か先生たちも宿直室に泊まってるから、何かあったらそっちに来てね」
「はい、ありがとうございます、先生」
部長が笑って素直に頷くと、先生は納得したように廊下を去っていく。先生の足音が聞こえなくなったのを確認して、僕は机の下に声をかける。
「スイちゃん、出てきていーよ」
ぷはぁ、と机の下からスイが這い出てくる。ぱんぱんと膝を叩いて、立ち上がる。
「もー、なんでスイ、隠れなきゃいけないのー」
「仕方ないだろ。先生に見つかったら説明のしようがないんだから。スイちゃんが、追い出されちゃうだけだよ」
「スイ、追い出されたくないー!」
「じゃあ、先生に見つからないようにしようね」
スイはまだ不満気だけれど、はーい、と渋々納得する。
校舎の向こう側、一般教室棟の方を見れば、ちらほらと明かりが点いている教室がある。他にも文化祭の準備で学校に泊まっている生徒がいるのだろう。
一転、部室棟の方はそこまで騒がしくもない。他の部活は普段から準備をしていたのだろう。大体、普通のクラス展示に比べて準備期間が取れているはずなのだから、それが当たり前なのだろうけど。
「さて、乃木崎くん、今日の一番の目的は忘れていないよね?」
「……なんのことでしたっけ」
とぼける。出来ればこのまま有耶無耶にやり過ごせるかと甘いことを思ったりしていたのだけれど、部長を相手に上手く行くわけがない。
「分かってるんだろう。君の分の、明日の準備だ」
そう言って、部長が指したのは壁際に立てられていた二枚の展示ボード。片方には綺麗に十何枚かの写真が並べられていて、もう片方は全くまっさらのまま。写真が貼られている方が部長のスペース。そうしてまっさらな方が僕に割り当てられたスペースだ。我が写真部には僕と部長の二人しか部員がいないので、それ以外にはないのだけれど。現状、これが文化祭で僕ら写真部が展示するものである。
ため息が落ちる。だって、僕のスペースは一枚たりとも写真が貼られていないのだ。というか、どの写真を貼るかも決めていないのだ。厳密には、決められていない。全部、今の今まで僕が逃げてきたツケだ。
「おにーさん、お仕事?」
「そうさ。おにーさんは大事なお仕事をサボりやがったから、今からやらなきゃいけないんだよ」
「お仕事なら、仕方ないなー。スイ、大人しくしててあげるー」
何を納得してくれたやら、スイはとてとてと歩いて部室の端に置かれたソファに向かうと、そこに腰かける。ふんすと何か息込んで、どうやら僕がこれからやる“お仕事”を観察しているように見えた。
「ほら、スイちゃんも見てるんだ。ちゃんとお仕事、しないとね?」
「分かってますよ。もう逃げませんってば」
諦めて、僕は机の上に無造作に置かれた箱を開く。ついでに脇に置かれたパソコンも起動する。
箱の中に入っていたのは、山ほどの写真だった。確か、百枚か二百枚か。パソコンの中にはその百倍くらいは、入っているだろう。
「これ、おにーさんが撮った写真?」
ひょいと机の横からスイが顔を出してくる。大人しくしていると今さっき言っていたのは、誰だったか。まあ、今は多少茶々が入ってくれた方が気も紛れて丁度いいけれど。
「……そーだよ。ヘッタクソだろ?」
半ば、自棄に吐き捨てる。認めるのは癪だったが、それが全て僕の撮ってきた写真であるという事実は、揺るがしようがない。この一年、撮り溜めてきた写真。どれもこれも、小手先の技術ばかりに頼ったことが丸分かりな、最低の、クソみたいな写真。飾ってあった所で誰一人目を留めない。誰かに何らかの情感を抱かせることなんて到底出来ない。無意味で無価値な、写真ども。
「だから、そう自虐するなって。君は考え過ぎだって、いつも言ってるだろう?」
「……部長には、分からないですよ、僕の気持ちなんか」
振り返り、既にボードに飾られた部長の写真を眺める。並んでいるのはどれも笑顔の写真だった。学校中の生徒や先生たちの、心からの楽しそうな笑顔の写真が、ずらりと貼られていた。写真に撮られることを意識しているわけでもなく、日常の楽しい瞬間をパシャリと切り取ったような写真。見ているだけで楽しさが伝わってくる写真。
僕には無理だと舌を噛む。だって、どう考えたって部長に僕が敵うわけがないのだ。
こうして当たり前みたいに制服を着て学校に通っている部長だけれど、その名前を聞けば多分、日本中のほとんどの人が知っていると答えるはずだ。
初めてカメラを持ったのは幼稚園の頃。小学校二年生にして大人に混じってコンクールで受賞。以降、参加するコンクールや大会で取ってきた賞は数知れず。中学生になった頃には丁度世間がカメラ女子ブームだったこともあり、天才少女カメラマンとしてテレビで取り上げられるようになった。高校に入ってからはメディアへの露出は少なくなったけれど、既に二冊出している写真集はいずれもカメラファンの間で高い評価を得ている。
そんな天才カメラ少女である部長に、まともに写真を撮り始めて一年半程度の僕が敵うわけがない。
それでも、僕はどうにか部長に追いつこうと頑張ってきた。この一年と少し、部長の隣に並ぶに相応しい写真を撮れるようになろうと、ひたすらに写真を撮り続けてきた。けれど、写真部に入りたての頃、初めて自分のカメラを手にした頃の無邪気な僕は、もうどこにもいなかった。下手な小手先の技術を覚えてしまったせいか、思うような写真が取れない毎日が続いて、ついにほぼ丸一年。僕は文化祭で部長の隣に並べることが出来る写真を、撮ることが出来なかった。
印刷してみれば何か変わるかと、百枚も二百枚も出してしまった自分が、地球に申し訳ない。こんなことに紙を無駄遣いするくらいなら、もっと有効的な使い方ができただろうに。出来うることならその全てを無かったことにして、この写真の山を燃やしてしまいたい。パソコンに残っている写真ファイルを全て削除してしまいたい。そんな欲求が、ふつふつと込み上げてくる。
「……そうやって決めつけられるのは心外だけれど、まあ確かに僕には乃木崎くんの本当の気持ちは分からないね。乃木崎くんに僕の気持ちが分からないように」
やれやれと部長は何か諦めたように、優しく言う。同情でもしているつもりか。なんで僕は、この人の側に立ちたいだなんて思ってしまったのか。所詮、敵う相手じゃなかったのに。
奥歯を食いしばり、叫びたい欲求を堪える。
下らないプライドだと分かっちゃいるけれど、部長の写真に並べられるくらいなら、このまままっさらで出してしまいたかった。自分の未熟さを人に見せたく、なかった。
「おにーさん、怖い顔」
「……え、あ……ごめん」
不意にかけられたスイの言葉に、僕ははっと顔を上げる。見れば、スイが少し怯えた表情を見せていた。
全く、情けない。
「まあ、さ。乃木崎くん。夜は長いんだ。少しでもいいと思うのを、ゆっくり選んでみればいいさ。僕は別に無理は言わないけれど……けどね、乃木崎くん。僕は君の写真が、そんなに嫌いじゃないんだよ」
寂しそうに部長が言う。
作品名:*レイニードロップ* 作家名:古寺 真