*レイニードロップ*
*
鍵を開けたドアの向こうは、相変わらずの豪雨だった。
轟々と吹き込む暴風雨は目も開けていられない程だけれど、僕らはここで引き返すわけにはいかない。
風に吹き飛ばされないようにスイの背中を押さえて、屋上に出る。
部長に借りたレインコート越しに打ち付ける雨粒が、肌に痛い。
スイもスイで最初に会った時の青いレインコートを着ているけれど、それだけで防げる雨じゃない。
自分の体でスイをかばうように、屋上の真ん中へ向かう。
「おにーさん、もう大丈夫だよ」
「……大丈夫?」
「だいじょーぶ。任せといて!」
当たり前だけれどまだ薄い胸を張って、スイはフードの中でにこりと笑う。
数歩僕から離れ、スイは大きく空を――雨雲を仰ぐ。この打ち付けるような雨の中、その周りだけ少し雨が優しく降り注いでいるように見えたのは、多分僕の気のせいじゃない。
トンと、一つ、ステップが踏まれる。いつかスイに出会った時と同じ、まるで跳ねるような、ダンス。
ああ、そうだ。と気持ちが蘇る。僕は、このダンスに魅せられたんだ。
雨と戯れるように、右へ左へと跳ね回る。その内、降りしきる雨の方がスイのステップに合わせているかのように思えてくる。そんなことはあり得ないと思っていたけれど、もしかしたら、スイは本当に雨を従えているのかもしれない。だって、スイのお父さんは雨を降らせる天気職人なのだ。だったらスイは雨の妖精みたいなものじゃないか。
気付けば、僕はあの時と同じようにカメラを手にしていた。雨の中で踊るスイの写真を無我夢中に撮り続ける。これが最後だと思うと、一枚でも多くスイの写真を撮ってあげたいと思った。
そうして、幾分が過ぎただろう。
不意に空が明るくなったような気がして、僕は顔を上げる。依然として空は厚い雨雲に覆われているが、一点、まるで槍で貫かれたような穴が開いていた。丁度そこから陽の光が差し込んでいるらしい。
うっすらと明るくなった空を眺め――突如目の前に現れた巨大な影に、僕は目を見開いた。
「な、なん……だ?」
頭上を覆い尽くす雨雲の黒に隠れていたから分からなかったのか、いつの間にか巨大な浮遊物が目前にあった。一瞬、まさかUFOか何かの類かと思ったけれど、どうやらそれは雲のようだった。雨雲の一部をちぎったような、雲だった。
ふと視線を落とすと、スイが踊りを止めていた。降って湧いた雲の一点を見つめて、立ち尽くしている。
「「スイ」」
と、呼びかけた声が重なり、はっとして僕は口をつぐむ。今のは、誰の声だ。この屋上には、僕とスイの他には、いないはずだのに、この声はどこから降ってきたのだろう。
降ってきた。
そうだ、声は、確か頭上から降ってきた。ということは、まさか。
「おとーさん」
「スイ、探したぞ」
スイに答えるように、雲から声とともに人が降りてくる。
「まったく……うちのわがまま娘は」
そう言って、屋上に着地したのは、三十そこそこに見える細面な、お父さんだった。
「……スイちゃんの、お父さん……?」
「そうだが君にお父さんと呼ばれる覚えはないし、やけにうちの娘を馴れ馴れしく呼ぶね?」
「え、あ、す、すみません」
口をついた呟きに、雲から降りてきたスイのお父さんは、いささか不機嫌そうに僕を向く。
慌てて頭を下げたはいいけれど、これは、もしかして僕は何か疑われているのではなかろうか。幼い娘をたぶらかした男、とか。いや、全然そういうんじゃないんです、と弁明しようと顔を上げる。
そこには、ニヤリと口の端を緩めたスイのお父さんの顔があった。
「冗談だ。気にするな。うちのわがまま娘が迷惑をかけた。助けてくれたことを、感謝している」
「は、はぁ」
どうも、掴みどころのない人だ。自由気ままな風は、確かにスイと似ているかもしれない。
「あ、あのね、おとーさん。おにーさんは、すごく、優しかったんだよ」
「そうか。お兄さんがいなかったら、スイは大変だったな」
「うん。おにーさんがいたから、助かったの……イタッ」
ゴツンと、ゲンコツがスイの頭に落ちる。痛そうに、スイは涙目でうずくまった。
「スイ、その分お前はお兄さんに大変な思いをさせたんだ。それだけじゃない。お父さんやお母さんを心配させた。こうして雨が降り続いたのは私のせいでもあるが……そもそもの原因はお前にあるんだ。分かっているのか?」
「……はい」
拗ねた顔で、スイはお父さんを見上げる。
「……ごめんなさい。おとーさん」
スイのお父さんは、少しだけ間をおいて、それから膝をついてスイを抱きしめる。
「二度とこんなことをするなよ。とても心配したんだからな、スイ」
お父さんの腕の中で、スイはぐずりと鼻をすすって目元を擦る。
さて、とスイを放すと、お父さんは立ち上がる。
「それじゃあ、帰ろうか、スイ。最後にお兄さんに、ありがとうを言ってきなさい」
お父さんの言葉を聞いて、スイは僕の方へとてとてと駆けてくる。
「おにーさん、色々、ありがとーございました」
「い、いや。いいよ、別に。今更気にしなくても、大丈夫だよ」
ペコリと頭を下げたスイに、少しだけ緊張する。そんな他人行儀にならなくてもいいのに。
「ねえ、おにーさん、ちょっとだけ、しゃがんで?」
「……なんで?」
「いーから!」
ぐい、と襟元を引っ張られ、僕は無理矢理しゃがませられる。
スイの顔が、すぐ目の前に来る。続けて、頬に触れる柔らかい感触。
「え?」
「ありがとうの、ちゅー!」
えへへ、と屈託なく無垢に笑うスイ。
恐る恐る、お父さんの様子を伺う。
「……一回だけ、許してやる」
明らかに笑ってない視線が、突き刺さる。いや、本当、僕何も悪くないんですけれど。
「帰っても、お父さんの言うこと、聞くんだよ。お父さんは、スイちゃんのことが大事なんだから、さ」
「うん! スイ、いい子になるよ!」
笑って、スイはお父さんのところに戻っていく。
「それじゃあ、行こうか、スイ」
「うん! じゃあね、おにーさん」
先に雲へ飛び乗ったお父さんに続いてスイも雲に飛び乗ろうとして、その直前、思い出したように振り返って声を張り上げる。
「またね、おにーさん! 今度は、スイのこともっと可愛く撮ってね!」
「今度は……って」
なんだ、と呆れて、僕は肩の力が抜けた。
なんだ、全部バレてたんじゃないか。っていうか、バレてないわけが、なかったのだ。
「分かった! 絶対、それまでにもっと上手くなっててやるから!」
「じゃあ、スイもずっとずっと可愛くなってるからね!」
冗談を言うみたいに笑って、スイは雲の中に飛び込む。それを待っていたように、雲は高く飛んでいって、ついには、頭上を覆う雨雲の中に消えてしまった。
まるで全部夢だったみたいに、あっさりとスイは帰っていってしまった。
でも、馬鹿ほど沢山撮った写真がこれは現実だと証明してくれる。
それに、スイと約束をしたのだ。次はもっとスイを可愛く撮ってあげると。
「……頑張らなきゃ、ダメだな」
自分に才能はないと諦めかけていたけれど、部長に追いつけないのは、それはそれで、いいじゃないか。僕は僕の好きな写真を撮れるようになれば。
作品名:*レイニードロップ* 作家名:古寺 真