主人公症候群~ヒロイックシンドローム~
治ったばかりの右腕を掲げ、拳を強く握っている。カンパーニュは甘んじて受けるつもりだった。ここまで信じてくれた英雄の栄光への一里塚になれるのなら、少しの間顔の形が変わろうとも、あの女の前に突き出されようとも構わない。
ゆっくりとジャスの右腕が腰の辺りに移動して、全身に力が込められているのがわかる。異世界でどんなことをしていたのかは知らないが、この国の騎士に素手で立ち向かうことのできる男だ。どんな技を持っているかカンパーニュには想像がつかない。
大地を踏みしめる音がする。風を切る音がする。躍動する体のエネルギーを狭い狭い拳の端に乗せて、カンパーニュの眼前に迫る。恐怖が一歩先にカンパーニュの全身を襲った。悪寒が背中で鬼ごっこしているかのように全速力で駆け回る。鼻先一センチ。あまり高くない彼女のそれの前で拳は止まった。纏った空気が少女の白い髪を乱す。
「出来るわけ、ねぇだろ」
カンパーニュの耳に届いたのは、そんな弱音にも似た言葉だった。
「どうして?」
「じゃあ、なんでそんなに悲しそうなんだ。どうして抗いもせず、嬉しそうなんだ」
矛盾しているようなジャスの言葉は、それでいて彼女の心中をうまく表現していた。カンパーニュは何も言えず、彼の隙だらけの胸に飛び込む。
「もう、終わりにしたいの。ジャスの手を終わらせてほしかった」
「でも俺には出来なかった」
「うん、でも、ありがとう」
温かい体を強く抱きしめる。返ってくる感触が強い力をくれるようだった。もう待つのはやめよう。カンパーニュはそう決めた。全ては自分から始まっている。だったら終わらせるのもやはり自分でなければいけない。
ジャスの手が小さなカンパーニュの頭を撫でる。
「どうするの? このままだとジャスは英雄失格だよ」
いたずらっぽく言った。悪の魔女にたぶらかされてその手に堕ちるなんて、それはそれで物語の主人公のようだけど、私の求めている像と、彼の求めている像が違うことくらいはよくわかっていた。
「それは、困るな」
たいして困ってもいなさそうにジャスは言った。
「ヒーローの条件は、泣いてる魔女を助けることだ」
「ずいぶん勝手で、限定的なヒーローね」
「うるせぇ、何とでも言えよ」
頭に置かれた手がカンパーニュを強く抱き寄せた。その力に身を委ねる。
カンパーニュはこの瞬間まさに救われていた。誰よりも不幸になりたいと願ったゆえに落とされた世界の中にいて、彼女は本当に不幸だった。思い直したように幸福を渇望しても、今度は満たされなかった。落ちるのは簡単でも這い上がるのは難しかった。その暗闇に手を伸ばしたのはジャスだ。
彼女にとってジャスはまさしく英雄だった。
「じゃあこれから、終わらせに行こうか、ヒーロー様」
腕をほどいて、そのままジャスの手を取る。少し照れ臭そうにジャスもカンパーニュの手を握り返した。
もう少し、もう少しだけヒロインでいたい。この物語に終止符を打つその瞬間まで。
作品名:主人公症候群~ヒロイックシンドローム~ 作家名:神坂 理樹人