禁断の実 ~ whisper to a berries ~
僕は今、後悔している。こんなことになるなら、中身も見ずにとっとと捨ててしまえば良かった。いや、旅にさえ出なければ良かった。【病院にて、友人に宛てたメールより抜粋】
『一年前 インド旅行日記からの回想』
大学の夏休みに、僕はバックパッカーとしてアジアから中国、そしてインドへと一人旅をしていた。
インドはその頃ちょうど雨季にあたり、モンスーンが吹き荒れるなか僕は超満員のバスにごとごとと揺られていた。加えてひどい田舎道のおかげで何度も何度もぬかるみに嵌り、その度にバスから降りて全員で押すはめになる。そうしている間にも、叩きつけるような大粒の雨がバスの天井はおろか、押す人全員の背中をしたたかに打ちつけた。だけど、少しは良いこともあった。それは出発前には顔も知らなかった者同士が、いつのまにか古くからの友達のように笑顔を交わせる関係になっていったことだ。
「どうだ、俺のパワーを見たか?」
そう言っているかように、力こぶを作りながら白い歯を見せて笑っている若者たちは総じて愛想が良かった。ただ、英語を話せない者も多かったし、こなれたヒンディー語などこの時は全然分からなかった。けど、脱いだランニングで、彼らと変わらぬ泥だらけの顔を拭いている僕に対して、乗客の家族たちもいつも暖かい微笑みを送ってくれた。その中でも特にゴツい若者が「チョータ、チョータ」とニコニコしながらミターイというインドの甘すぎるお菓子をくれたが、残念ながら『翔太』が僕の正確な名前だ。
今は泥だらけの冴えない男だったけど、中国では「ニイハオ、帥哥」(こんにちは、カッコいいね)とよく言われたし、自分では少しだけイケメンだと勝手に思っている。まあ……あとから聞いた話だと、中国では普通の挨拶にも使われるらしい事が分かったけれども。
やがて日も暮れるころ、ずぶ濡れの乗客を乗せたバスはアラビア海に面している都市『ムンバイ』に到着した。僕がバスから降りると、残りの乗客はおろか運転手まで降りて来て笑顔で手を振ってくれた。
少し歩くと、雨に長時間濡れたせいか急に全身が熱っぽく頭痛までしてきた。ムンバイも湿度が高く、三十五度を超える気温も体調不良のこの身体には余計にキツく感じる。
「風邪でもひいたかな。でも、薬は切らしちゃってるし」
タージマハル・ホテルを横目に見ながら、薬局を探すためにうろうろしていると、細い路地に一件の古びた売店を見つけた。軒先には古い壺やロープなどが乱雑に並べてある。
「ラーム、ラーム」
バスで教えられた通り、「ナマステ」でも「ナマスカール」でもなくこう言って無人の店内に両手を合わせた。すると何故か、奥から老いた店主がすごい形相で走り出て来た。これまでインド人の商売人はのろのろ動いている印象があったので、少しだけびっくりする。
しかし――もっと驚くことがここで起こった。
「???? ?? ??? ??? ????? ?? ????!!」と僕を見て言ったかと思うと、カッ! と老人の目がそれ以上開かないぐらいに見開かれた。
良く見るとしわしわのその手には、人数を数えるための意外なほど新しいカウンターが握られていた。それを僕の目の前につきだし、次に僕と手元のカウンターを日に焼けたしわしわの指で交互に指す。その間、ヒンディー語や短い英単語で何かを一生懸命説明していたが、早口で全く理解できなかった。
ただひとつ分かったことは、カウンターの数字が十万ちょうどで止まっている事だけだ。ついに痺れを切らした老人は、一度奥まで引っ込むと小さな皮の袋を持ってきて大事そうに僕に渡す。その姿を例えるなら、ちょうど壊れ物にでも触るような感じだ。
「いや、これじゃなくて僕は薬が欲しいんです! く、す、り」
ついには、病人が何かを飲んで元気になる様子を渾身の演技で表現してみたが……彼はぱっと床に伏せ、とうとう頭の上で手まで合わせだした。
もう薬を買うのを諦めて、老人にその皮袋を返そうと近づくと「とんでもない!」という風に後退りをしてしまい全く埒があかなかった。
こんなやりとりをしているうちに、いつの間にか頭痛はうそのように消え、体調が少し回復してきたのを感じた。もしかしたら、この皮袋には病気を治す不思議な効果でもあったのだろうか。結局、必死の気迫に負けた僕は、根負けしてそれを受け取ってしまった。
まだ手を合わせている老人に僕は頭を下げると、手垢のついた皮袋を無造作にバックパックに放り込み、今夜の宿を探すため街に戻る事にした。
「不思議な体験をしたなあ。まあ、これも旅の醍醐味だな。でも……なぜあの人はあんなに必死だったんだろう」
異国の地では色んな事が起こることはこれまでの経験で学んでいたが、こんなに積極的に物を渡す人は初めてだった。
ただ――この老人との出会いが、これからの僕の人生を大きく変えることになるとは、この時は全く知る由もなかった。
二〇二一年 東京 夏
僕の通う都内の大学は、また長い夏休みに入ろうとしていた。街ではエアコンの室外機の熱気も加わりさらに暑さを加速している。最近はバイト以外で外出するのもおっくうになるほどの猛暑が続いていた。
この日は珍しく、友人のマサトとビアガーデンに来ていた。……と言っても、ここは僕のバイト先なのだが。当然、今日だけはシフトを入れていない。
「ぷっはあ! 単位もそろそろ取り終わるし、また旅行行っちゃおっかなー!」
一杯目のビールを半分ほど飲み干し、口に泡をつけながら僕は対面に座っている友人を見た。
「おまえはいいよなあ……。俺なんか単位が足りてなくて、友達からノート借りまくりだよ。しかも、ノートのレンタル料を一日五百円もとるんだぜ。マジ暴利」
テーブルの枝豆を口に放り込み、マサトはため息をついた。同級生の彼は、僕の一番の親友であり、所属しているサークルも一緒だ。
「あら、今日は休みなの? っていうか、なんでわざわざこっちまで来るのよ。地元で飲めばいいのに。それはまあいいとして、翔太。こんなめっちゃ忙しい日に休みなんて入れてくれちゃって……そのビールがいま、あたしの汗の味になってしまうがいい!」
声をかけてきたのは同じバイトの樹理だった。笑うと八重歯がのぞく、健康美の溢れる美人である。今日は髪をポニーテールにまとめ、店のロゴが入った赤いエプロンをつけていた。今日は相当忙しいのか、ビールのジョッキを片手に三つずつ持ち、形の良い額には汗のつぶが浮いている。
彼女も大学のサークルが一緒で、そのサークル名は『いい旅・同好会』だ。この名前のセンスの無さには先輩に文句を言いたい所だけど、旅費の積み立てを多めにしてくれる彼らに、感謝こそすれ文句が言える訳が無かった。大きなメリットとしては、海外旅行が多いからか、所属している部員の多くが日常会話程度の英語を自然としゃべれるようになっていくという事だろうか。
「ふっふっふ。さすがの私にも休息が必要なのだよ。しかも今日は割引券まで持っている。これは十日連続の地獄のシフトを入れると貰えるのだ。まあ、せいぜい君もがんばりたまえ」
樹理の目の前で割引券をひらひらと振る。
作品名:禁断の実 ~ whisper to a berries ~ 作家名:かざぐるま