こいびと
彼は私を愛していた。
彼は私の音を愛していた。
だから私は音を捨てようと思った。言葉にしてしまえばこんな簡単な理由を、きっと彼は知らない。気付くことすらしない。だから、私は彼を愛している。彼のものになりたいと心の底から願っている。
「私、帰りたいの」
嘘だった。そんなことこれっぽっちも思っていなかった。このまま彼のために囀り続ける鳥になることに幸せすら感じていた。だって彼は私の音を愛してくれていたから。
音を奏でることは長年私の全てだった。その全てをほしいと願ってくれる人がいた。その人を好きになるのに疑問はなかった。けれど、けれど。
けれど、私はいつの間にか自分の音に嫉妬していたのだ。
彼は私ではなく私の音を愛している。
私じゃないものを見る貴方なんていらない。私じゃないものもいらない。
彼の目つきが変わった。虚脱、困惑、動揺、不信、焦燥、悲哀、恐怖。怒りだけは最後まで見られなかった。全身を震わせながら、大粒の涙を流しながら、「失うなんて耐えられない、そんなの嫌だ」と叫びながら彼は私の首を絞めた。ぎゅっと、彼の手形が首に吸い込まれていくような感覚。生理的な苦痛に思わずむせてしまう。その声に怯んだように彼の手が緩んだ。すっと空気が戻ってくる。
くすくす、と自分の低い笑い声と、子供のように泣き叫ぶ彼の声が混じりあう。再び彼の手が巻きつくのと同時に記憶を放棄した。暗転。
目を覚ますと、私は生きたままだった。
私は死んでいなかった。彼のものになりきれなかった。
彼はきっと死んでいない私を見て、またあの時のように音を奏でてくれ、と願うだろう。それは嫌だった。私を見ていてほしかった。彼のものになりたかった。彼のものは私だけだと信じたかった。
だから声を捨てた。彼に言葉を伝えることを諦めた。
私はとても満ち足りた気持ちで首筋の手形をなぞる。次はどこに、どの彼の痕が残るのだろう。
これからきっと何度も繰り返される儀式の予感に思わず頬が緩みそうになる。
私の体も、心も、そう音さえも全部全部彼のもの。
でも彼はきっとそれに気付いていない。こうなる前からそうだったということに。
私は貴方のものになりたい。その為なら体がなくなってもいいから。
「愛しているんだ」
彼は泣きながら無音の私を痛めつける。私を傷つけることを心の底では嫌がっているのだ。そんなことする人ではなかったから。知っている。知っている。
でもね、いいのよ。そうしてほしいのは私だから。貴方から受ける傷痕は貴方の一部を貰いうけた証のように思えるから。
紫色になった腕は彼がここに触れていたことの印。必要以上に赤くなった頬も、彼の涙と混じりあう血液も、全て愛おしい。
彼は何も知らない。きっと何も知らない。貴方のことが好きなことも、こうしてほしかったのだということも。私のことなんてきっと知らない。それでもいい。貴方を独り占めできるのだから。
その為なら、私は喜んでがらんどうの振りをする。彼に愛していると言えないままでいい。私のことを愛してくれるから。きっと何度だって彼の痕を残してくれるから。それが私と彼にとっての愛情だから。
だから、ずっとこのままで。