こいびと
彼女の音が聞こえなくなった。
僕のものだった、僕のカナリアだった彼女の音が聞こえなくなった。
「どうして弾かないの?いつもみたいに君のピアノが聞きたいんだ」
「駄目よ」
駄目、それはできない。と彼女は首を横に振った。彼女が僕の願いを拒絶すればするほど僕の心は掻き乱されていく。彼女は凪いだ海よりも落ち着き払っている。僕は、彼女は。
「私、帰りたいの」
彼女がきっぱりとそう言った。言葉の意味が分からなかった。
「どこに?君はここにいるって」
「自分の家に帰らせて欲しいの。また明日来るから」
また明日。自分の家。帰る。帰る、帰る帰る帰る帰る帰る?どこに?一体どこに?何故?
記憶がなくなる。誰かの悲鳴が聞こえた気がした。すすり泣く声も聞こえてくる。誰の声なのか分からない。誰かが泣いて、誰かが笑っている。
目を覚ましたら、彼女がいた。
「……」
けれど今度はじっと声も出さない。ピアノを弾かなくなったことは夢じゃないどころか現実はもっと悪化していたことがたまらなく悲しかった。
「ねえ、ねえ」
彼女の手をとってそう語りかけても、彼女はまたいやいやをするだけだった。
彼女はじっと玄関の方を見つめている。僕のことなど見もしない。悲しかった。彼女のことをこんなに愛しているのに、彼女のことをこんなに心配しているのに。
もう二度と彼女のピアノを聞くことはできない。もう二度と彼女の声を聞くこともできないのかもしれない。
そしたら彼女の笑顔は?彼女のぬくもりは?
全て僕のものだった筈の彼女がどこかに行ってしまいそうなことがたまらなく恐ろしかった。
どうしてこんなことになってしまったのか分からなかった。
彼女の世界は僕だけだった筈なのに。彼女には僕しかいない筈だったのに。どうして彼女は外に出たがるのだろう、どうして彼女は僕を見てくれないのだろう。どうして彼女は僕を否定するのだろう。
――ああ、せめて、体が思い通りにならないのなら。
彼女は歌わなくなった。
彼女の音は聞こえなくなってしまった。
けれど、彼女はずっと僕のもののままだった。
心も体も、全て僕のものにできないのなら。せめて心だけでも、もしくは体だけでも。
肉体は死んでも心が生きていればそれは紛れもない彼女の筈だから。
「愛しているんだ」
彼女の腕に力を込める。彼女の首筋に爪を立てる。彼女の頬を裂く。
彼女の体に自分を染み込ませるように。そう、これは傷つけているのではなく、彼女と僕とを同化させている儀式なんだ。そうだよね?
彼女がそうよ、と頷いたような気がして僕は嬉しくなって彼女を抱き締める。このまま永遠に、全て僕のもののままでいてね、と囁く。もうカナリアではないかもしれないけれど、それでも君が好きだから。
だから、ずっとこのままで。
僕のものだった、僕のカナリアだった彼女の音が聞こえなくなった。
「どうして弾かないの?いつもみたいに君のピアノが聞きたいんだ」
「駄目よ」
駄目、それはできない。と彼女は首を横に振った。彼女が僕の願いを拒絶すればするほど僕の心は掻き乱されていく。彼女は凪いだ海よりも落ち着き払っている。僕は、彼女は。
「私、帰りたいの」
彼女がきっぱりとそう言った。言葉の意味が分からなかった。
「どこに?君はここにいるって」
「自分の家に帰らせて欲しいの。また明日来るから」
また明日。自分の家。帰る。帰る、帰る帰る帰る帰る帰る?どこに?一体どこに?何故?
記憶がなくなる。誰かの悲鳴が聞こえた気がした。すすり泣く声も聞こえてくる。誰の声なのか分からない。誰かが泣いて、誰かが笑っている。
目を覚ましたら、彼女がいた。
「……」
けれど今度はじっと声も出さない。ピアノを弾かなくなったことは夢じゃないどころか現実はもっと悪化していたことがたまらなく悲しかった。
「ねえ、ねえ」
彼女の手をとってそう語りかけても、彼女はまたいやいやをするだけだった。
彼女はじっと玄関の方を見つめている。僕のことなど見もしない。悲しかった。彼女のことをこんなに愛しているのに、彼女のことをこんなに心配しているのに。
もう二度と彼女のピアノを聞くことはできない。もう二度と彼女の声を聞くこともできないのかもしれない。
そしたら彼女の笑顔は?彼女のぬくもりは?
全て僕のものだった筈の彼女がどこかに行ってしまいそうなことがたまらなく恐ろしかった。
どうしてこんなことになってしまったのか分からなかった。
彼女の世界は僕だけだった筈なのに。彼女には僕しかいない筈だったのに。どうして彼女は外に出たがるのだろう、どうして彼女は僕を見てくれないのだろう。どうして彼女は僕を否定するのだろう。
――ああ、せめて、体が思い通りにならないのなら。
彼女は歌わなくなった。
彼女の音は聞こえなくなってしまった。
けれど、彼女はずっと僕のもののままだった。
心も体も、全て僕のものにできないのなら。せめて心だけでも、もしくは体だけでも。
肉体は死んでも心が生きていればそれは紛れもない彼女の筈だから。
「愛しているんだ」
彼女の腕に力を込める。彼女の首筋に爪を立てる。彼女の頬を裂く。
彼女の体に自分を染み込ませるように。そう、これは傷つけているのではなく、彼女と僕とを同化させている儀式なんだ。そうだよね?
彼女がそうよ、と頷いたような気がして僕は嬉しくなって彼女を抱き締める。このまま永遠に、全て僕のもののままでいてね、と囁く。もうカナリアではないかもしれないけれど、それでも君が好きだから。
だから、ずっとこのままで。