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Savior 第一部 救世主と魔女Ⅲ

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 あの日の出来事は、今でも鮮明に思い出せる。
 半年前の出来事を、キーネス・ターナーはゆっくりと反芻した。



 オリヴィアは逃げろと言った。
 血に染まった胸に手を当てて、酷く苦しそうに言った。
 奴が自分に取り憑こうとしていると。
 失った前の身体の代わりに、自分を入れ物にしようとしていると。
 でも今なら、奴は根も枝も蔓も操れない。奴が自分に取り憑こうとしている、今この隙に逃げろと。
 確かに、樹々は沈黙していた。木の根も枝も蔓も、みな動きを止めていた。逃げるなら今しかなかった。
 だから、俺達は逃げた。負傷し、悪魔に取り憑かれた仲間を置いて。
 動けないゼノを連れて、逃げるしかなかった。
 逃げた俺達は、神殿も半ばを過ぎた頃で一度足を止めた。最もゼノはろくに動けなかったから、俺が止まればゼノも止まらざるを得なかっただけだった。
『戻らなければ。オリヴィアを助けないと』
『待てよキーネス。焦ったってどうしようもねえ、よ・・・・・・』
 戻ろうとする俺をゼノは息も絶え絶えになりながら引き留めた。傷口を抑え、必死で言葉を紡ぐ。
『悔しいけど、この怪我じゃ、オレは役に立たねえ。でも一人では奴に勝てねえし、大体、悪魔に取り憑かれてんのに、どうやってオリヴィアを助けるんだよ・・・・・・? 悪魔を祓えるやつを連れてくるかしねえと・・・・・・』
『悪魔を祓う? そんなことができる奴が悪魔祓い師の他にいると思うか? それとも悪魔祓い師を連れて来いとでも? ミガー人を救ってくれる酔狂な悪魔祓い師がいるものか』
『分かん、ねえ・・・・・・でもオレ達には無理だ・・・・・・だから、今は退くしか・・・・・・』
 いつも能天気で馬鹿で直情型なのに、この時のゼノは酷く冷静だった。そんな親友に、俺はどうしようもなく腹が立った。いつもなら、真っ先に助けに行こうというくせに。馬鹿みたいに突っ込んで、むしろ危険な目に合うくせに。今になって怖気づいたのか? 今までにない危機だから? 対処できないような相手だから、オリヴィアを見捨てるというのか。
 そんな俺の非難を、ゼノは察していたようだった。
『何も悪魔祓い師を連れてくるってだけじゃ、ねえ・・・・・・探せば何か方法があるかもしれねえ、だろ。悪魔を祓う方法が・・・・・・そのために今は、退くんだよ。オリヴィアは絶対に助ける』
 俺を見据えて、ゼノはきっぱりとそう言った。分かっていた。ゼノは仲間を見捨てるような奴じゃない。むしろ俺よりも冷静に、オリヴィアを助ける方法を考えていた。
『せめてコノラトで援軍を呼んで、それ、から――』
 血を流しすぎたのか、ゼノはそこで意識を失った。応急処置はしたし、生命力の強いやつだから、すぐに町へ戻って医者に見せれば大丈夫だろう。だが、ここから出られるのか? 町へ戻れるのか? 戻れたとしても、オリヴィアは――
 援軍を呼ばなければいけないのは分かっている。俺達だけでは手に負えない。だが頭では理解していても、すぐ行動に移せなかった。オリヴィアは本当に悪魔に取り憑かれたのか? もし取り憑かれていなかったら? 悪魔は心の弱った人間に取り憑くという。オリヴィア・セロンは容易に悪魔に取り憑かれるような人間だろうか? むしろ怪我をしたまま置いていく方が、あいつを危険にさらすのではないか――
『ここを出るの? それは困るわ』
 その時、良く知っている声が聞こえた。
 振り返ると、そこにはオリヴィアが立っていた。胸は血に染まったままで、足取りはどこかぎこちない。けれど緑の目はぎらぎらと狂気に燃えていて、口元にはオリヴィアであれば有り得ない笑みが浮かんでいた。
『大切なものを取り戻すためには、もっとたくさんの人が必要なの。だから、あんたたちもここにいて。大丈夫。ここは良い所だから』
 俺の期待は、浅はかな希望は、裏切られた。オリヴィアは確かに悪魔に取り憑かれていた。彼女の身体を彼女ではないものが動かしていた。
『ふざけるな。悪魔め。オリヴィアを解放しろ』
『あんたが前の身体を殺してしまったから駄目。あたしには存在を維持するための器が必要なの。この娘は、あたしが必要としてる力を持ってる』
 自分で自分を抱きしめるような恰好をして、女は嬉しそうに語る。そして名案を思い付いたとばかりに、弾んだ声で言った。
『そう。そうだ。あんたがあたしの願いを聞いてくれるなら、あんたたちを解放してあげる』
『そんな話、誰が聞くものか!』
 それは悪魔の甘言だ。聞いてはいけない。人間の心を捉えて、陥れようとする罠。だが、身構える俺に、女は憐れみのこもった視線を投げかける。
『聞く前から耳を塞ぐのはやめなさい。簡単なことなんだから。あたしの代わりに、あんたがここに人を連れてきて欲しいの』
『なんだと・・・・・・!』
『ここに、もっと人を集めたいの。もっと昔のように大勢の人を住まわせたいの。でもあたし一人では呼べる人数に限界がある。でもあんたなら、出来るでしょう? 情報屋なんだから。それに、あたしはもっと強い力を持つ器が欲しい。器を用意してくれるなら、この娘はいらない。返すわ』
『――なら俺を器にしろ』
『駄目よ。あたしに必要なのは魔術師なの。あんたはそうじゃない』
 女はにべもなくそう言って、やけに真剣な目をする。そして乞うように、他の誰にも頼めないという風に、切々と訴えた。
『あたしが望みをかなえるのを手伝ってくれる人が欲しい。手伝ってくれるなら、一人や二人、見逃しても構わない』
『・・・・・・断ったらどうなる?』
 俺はそう言った。そう言って、しまった。悪魔の言うことを訊こうとしてしまったのだ。
 女は嬉しそうに笑った。
『あんたたちは死ぬ。手負いのその子を連れてここから出るのは無理でしょ? その子を置いて、あんた一人で逃げるなら話は別かもしれないけど。そして、代わりがないならこの器は死ぬまでずっとあたしのもの。どうするの? この話を受けて三人とも生き延びるか。断って三人とも死ぬか。あんたの決断次第』
 俺の決断次第。その言葉が、頭の中でぐるぐると回った。決めなければならない。こいつに従うか。それとも死ぬか。
 俺は武器を下ろした。下ろさざるを得なかった。
『・・・・・・分かった』
 オリヴィアを死なせたくなかった。ゼノも死なせたくなかった。他の誰かを犠牲にしても良いというわけではない。自分だって死にたいとは思わない。けれど、
 ゼノもオリヴィアも、何があっても見捨てることは出来ない、大切な仲間なのだ。
『お前の言う通りにする。その代わりお前が約束を守ることを証明しろ』
 悔しさを押し殺しながら、オリヴィアに取り憑く悪魔にそう言った。誰かを犠牲にしたいとは思わない。でも、二人を助けるためならそうしよう。そのために生じる罪も責任も、全て逃げずに受け入れよう。それでゼノが助かるなら。それでオリヴィアが救えるなら。そして生きているならば、いつかきっと――
『分かったわ。証明してあげる』
 キーネスの返答を聞いて、悪魔は満足そうに微笑んだ。



『イテテ・・・・・・悪ぃな。こんな怪我しちまって。しかも記憶ぶっ飛ぶほど頭打つなんて、このオレとしたことがドジっちまったぜ』