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試験×私見

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 何だ、この問題・・・・・・。
国が人の生命の選別を行うなんて、過激な問題だな。
 とりあえず、提起する訴訟の形式については、不許可処分に対する取消訴訟と、シェルター利用許可処分を義務付ける2号義務付け訴訟が考えられるのだろう。
 問題は、どのような憲法上の主張ができるかということ。
 まず、第一に、国が人の命の選別を行うことは、個人の尊厳(憲法13条前段)を侵害するもので許されないという主張が考えられるだろう。
 第二に、命の選別が許されるとした場合でも、選別基準が平等原則(憲法14条)等に違反し許されないという主張があるのだろう。
 単純に考えた限りで思い付く主張の枠組みとしては、この程度かな。

 しかし、そんな単純なことで済ませていい問題なのだろうか。
 そもそもの憲法の成り立ちに関わることから深く考えてみるべきなのではないだろうか。
 少し深く考えることにしよう。

 そもそも、憲法の成り立ちにはいわゆる社会契約が関係しているとされている。
 簡単にいえば、国民は自己の生命・自由を守るために、社会契約によって国家(主権)を組織したのであり、その社会契約を実現するためにできたのが憲法だ。
 そして、憲法の本質は、国民から託された権力を国家が濫用して国民の権利を侵害しないように、国家権力を拘束するという点にある。
 このような憲法の成り立ちや本質から、国家が国民の生命を奪うということは許されないはずだ。
 死刑制度に対する批判として、国家が国家権力の正当性の根拠である国民の生命を奪うことは「憲法の自殺」であると言われたりするのも同様の理由からくるものである。

 しかし、本問は、国家が国民の生命を奪うという場面ではない。
 国民が死ぬのは小惑星の激突によるものであって、国家が殺すわけではない。
 生き残ることができる国民の数が限られている中で、一部の者を生かし、その結果、残りの者が犠牲となって死ぬことになる。
 結果的に、誰かが公益のために犠牲になってしまうという場面は、これまでの判例の事案の中でも存在している。
 例えば、予防接種禍の事件等がそうではないかと思う。
 しかし、その事案では犠牲になった人は選ばれていたわけではない。偶然に、予防接種の影響で死亡したり、重い障害を負ったりしたのだ。誰が死亡するかわからない、まさに「悪魔のくじびき」だったのだ。

 では、本問のように、誰が犠牲になるかを決めた上で、より早期の復興という公益のために国民を犠牲にするということは許されるのだろうか。
 許されないというべきだろう。
 「すべて国民は、個人として尊重される。」(憲法13条前段)
 すなわち、いかに公益のためでも、人の命に優劣を付けるということは、国民を個人として尊重しているとはいえない。
 確かに、功利主義の立場からすれば、復興のために有益な人を生き残らせるということが「最大多数の最大幸福」を生み出すことであり、正しいと考えうるのかもしれない。
 しかし、それは、人の生命という最も重要なものを犠牲にしても成り立ちうる議論ではない。臓器移植をしなければ死んでしまう人が5人いたとして、その5人のために1人の健康な臓器を持つ人から臓器を取り出してその人を死なせてしまってもいいということにはならない。
 結局は、最初に考えた個人の尊厳を侵害するから許されないというところに着地したわけか。

 国が国民の生命を選別することは、どのような公益のためであったとしても、個人の尊厳を侵害することになり、許されない。

 これが、わたしの私見だ。
作品名:試験×私見 作家名:宇都 治