私の手の中で星が死んだ
私、こんな場所に来たくなかった。
おもちゃ屋さんもお洋服屋さんも、それどころかお菓子を買うコンビニすらないなんて。
夜は真っ暗だし虫がたくさんいるし、すごく大きなカエルの鳴き声もする。
お父さんはお友だちを作りなさいと言うけれど、見かける同じ年頃の子はみんなとても野蛮に見えて怖かった。
早く帰りたい。
お母さんのご飯が食べたい。
とても暑い日だった。
私は夕立に降られて小さなバスの待合所の中で濡れた髪を拭いていた。お父さんに結ってもらった不恰好なみつあみがさらにくしゃくしゃになった。
「可愛いお洋服ね」
突然降ってきた声に私は飛び上がって驚き、手の中のハンカチを落とした。
「ごめんなさい、びっくりさせて」
声の主を見上げるとそこには大きな帽子をかぶった背の高い女の人が立っていた。
差し出されたハンカチを無言で受け取る。
「これは夕立よ。じきにあがるわ」
彼女はベンチに座り、どうぞ、と隣を示した。
「私も雨宿りしているの。よかったらお話しましょう」
私は返事をしようと思ったけれどしゃべり方を忘れたように声が出なかった。彼女にみとれていたのだ。彼女は美しかった。
「この町の子じゃないよね、夏休みで遊びに来たのかしら」
私は、ちょっと違うけど…と思いながらひとつうなずいた。うなずいたことで金縛りが解けたように体の力が抜けた。私は彼女の隣に腰かけた。見上げると、彼女は美しく微笑んだ。
「なんにも無いでしょう、この町。あなたはきっと都会から来たのかなって分かるわ、なんとなく」
夕立が待合所の屋根と窓を激しく叩いているけれど、静かな彼女の声は不思議とよく聞こえた。遠くで雷も鳴り始めたようだった。彼女は心配そうな顔で私を見た。
「あら、雷が怖くないのね。すごいわ。私があなたくらいの時は雷が本当に怖くて」
私は雷が好きだった。私もあんな風にピカッと光ってゴロゴロ鳴って、小さな女の子を怖がらせてみたかった。
私はこの女性がいまはもう雷を恐れなくなってしまったことを残念に思った。私の隣で固く目を瞑り耳を塞ぎうずくまって雷から逃れようとする彼女の姿を見てみたかった。
彼女の横顔をぼーっと見つめながらそんなことを考えていると、ふとなにかが腕に触れた気がした。見ると、小さな蜘蛛が私の腕をよじ登っていた。
私は全身に鳥肌が立ち叫ぶことも出来ずにベンチから飛び上がった。必死で腕を振る私を見て女性は状況を理解したようだった。
「虫は苦手なのね」
彼女は蜘蛛を振り落とそうとする私の腕を手首を掴んで止めた。登り続ける蜘蛛はもう今にも半袖のブラウスの中に入りそうだった。彼女は私の腕を掴んでいるのと反対の手で器用に蜘蛛を掬い、私の腕から離した。するりと手首も離される。さらさらとしたひんやり心地よい手だった。
「もう大丈夫よ」
彼女は私に言ったのか蜘蛛に言ったのか、そう言うと待合所の外にそっと蜘蛛を放した。
そのまま空を見上げて、あら、っと声をあげた。
「やんだみたいよ」
まだ心臓がどきどきしていたけれど、私は雨のあがった空を見てうなずいた。
「虫は嫌い?」
私はまたうなずいた。
「この町にはとっても綺麗な虫がいるの。夜空の星みたいな虫よ」
私はそんな虫知らなかったので首を傾げた。
「都会じゃ絶対に見れないわ。よかったらこれから一緒に見に行かない?少し歩いたとこに、よく見れる場所があるの」
私はわざわざ虫を見るために少し歩くなんて気が進まなかったけれど、家に帰るのはもっと気が進まなかったし、なによりこの女性ともっと一緒に居たいと思ったのでうなずいた。
「よかった」
彼女は微笑んで私の手を引き待合所を出た。
作品名:私の手の中で星が死んだ 作家名:真朱@博士の角砂糖