Grass Street1990 MOTHERS 1-9
1
「先生、どこ行ってたのよ。ずっと待ってたのに。」
水曜日の夕方、部活動を終えて職員室へ戻った俺に向かって、川本良美は机に肘をついて言った。
俺の机だ。ついでながら言うと、俺の椅子にも座っていた。
「部活だよ。はい、どいてどいて。」
その言葉に彼女はしぶしぶ立ち上がると、俺の10センチ前をすばやく横切って、隣の木俣先生の椅子に腰を降ろした。
人の前を通るときはせめて“Excuse me.”くらい言うものだ。知識しか教えていない日本の英語教育最大の問題点がここに露呈されている。英語教師として責任を取り、代わりに言ってやろうかとも思ったが、生徒は甘やかしてはいけない。
そういうわけで俺は無言で、それまで川本が座っていた自分の椅子を通り過ぎて奥のコーヒーメーカーまで歩み、確か4時頃自分で煎れた煮詰まったコーヒーをマグカップに注いだ。
「どうしたか聞いてくれないの? いけずー。」
背中から声が追ってきた……これだ。俺は頭を抱えたくなった。手がマグカップでふさがっていなかったら本当にそうした。
誰がこいつをこんなふうにしたんだ……今や女子高校生の3分の1はこんな話し方をするようになってしまった。そしてあとの3分の2には日本語が通じない。
「子供は寝る時間だよ。」
俺は職員室に掛かっている、チャイム機能を持つせいで破滅的なデザインを恥ずかしげもなくさらしている時計を見た。
午後6時10分。
「…で、何?」
「頼みがあるの。」
俺の的確な指摘には何の反応も示さず、川本はまっすぐ俺を見て言った。
……大きくて印象的な目。自分が副担任をつとめているクラスの子なのだが、4月から約4ヶ月、正面から近距離で顔を見たことはなかった。よく見るとわりかしきれいな子だ……あくまでもわりかしだが……少し唇が厚いけど眼鏡がよく似合う……だんだん印象が良くなってきた。
一言ほめてやろうかとも思ったが、俺の奥ゆかしさが邪魔をし、出てきたのは全く違う台詞だった。
「金なら貸さんぞ。」
「違うわよ。」
あっさりと返された。くじけない子だ。
「だから、すぐに下駄箱の前に来てね。」
……一体いつから女子高校生はこんなに図々しくなったんだろう。俺が高校の英語教員になって4年あまり、彼女らの図々しさは加速しているようにも思える。世界最初の女子高校生はもう少しおしとやかだったのではないだろうか。会ってみたいものだ…
…もし30才以下なら……
……気がつくと、川本はさっさと職員室を出てしまっていた。
くじけない上に図々しい上に冷たい奴だ。
だいたい、頼みごとというのは相手の返事まで聞いて、肯定の返事をもらってから移動を開始するのが世の常識というものではないか。そんな躾もされていないなんて、親が悪かったのだろうか……いや、良い親の方が子供は悪くなるという説もある。親がどうとかいうのは現象を後から観た理由付けに過ぎない。それに、過去を振り返ってもしかたない。頼みごとはなんだかしらんが今は川本の将来を考えてやらねば、うん。
だから下駄箱に行こう……コーヒーを飲んでから。
だいたい、部活動で疲れた身体で、さらに勤務時間もとっくに過ぎているのに生徒の頼み事を聞いてやるなんて、これこそ『教育的配慮』というやつだ。
……『教育的配慮』。
……うん、いい言葉だなあ、これ。
よく意味は知らんけど……
2
「……というわけだ。」
その夜、8時40分過ぎ、場所は岐阜市真砂町にある「北中部放送宣伝株式会社」一階の事務室、兼、我が何でも屋ブルーグラスバンドScarecrow(スケアクロウ)の練習室。
俺の目の前には、この宣伝会社の跡取りでスケアクロウのベ-ス弾き、と同時に俺の10年来の超悪友、『ズボ』こと長谷部が座っていた。
「だから?」
黙っている俺に向かってズボはタバコをくわえたまま聞いた。マイルドセブンFK。嫌なタバコだ。
味のないタバコを吸う奴の気持ちが俺にはさっぱりわからない。大体こいつとは昔からタバコの趣味が合ったことがない。高校生の頃、俺がセブンスタ-を吸って、ズボはサムタイムだった。大学に入り、俺がロングピース、ハイライト、ゴールデンバットと着実に趣味を上げていくのに対し、奴はあろうことかセーラムを吸うまで身を落した事がある。そういえば仲間内で初めてミスタースリムとモアをくわえたのもこいつだった。あーおぞましい。日本人の男性でこのタバコが似合うのはピーターと美川憲一だけだ。
「だからって?」
俺はつっけんどんに聞き返した。奴がミスタースリム(それもメンソール!)をくわえた姿を思い出し、気分が悪くなったからに他ならない。なんで世の中にはこんなに味もないくせに名前だけ変えたタバコが多いのだ?
「話の続きだよ。」
「そんなにあせるな。」
「おまえなあ……」
ズボはタバコをゆっくりもみ消した。俺とは正反対の白くて長い指。今度はモア(の緑の箱のメンソール!)を思い出した……あー気持ちが悪い。
ミスタースリムとモアとどっちを取るかと聞かれたら、俺は迷わずカルティエヴァンドームを選ぶ。
「30分もかけて前置きだけ話しやがって、いつになったら仕事の話になるんや。」
「俺は学校の下駄箱が嫌いなんや。」
「……なんで?」
「臭い。」
奴はくわえかけたタバコを床に落した。いちいちやることの派手な奴だ。こうやって女をだますのだろう。
それよりいつからこいつはチェーンスモーカーになったんだろう。FKなんか吸うからだ。そんなタバコで足るくらいならロングピースを吸えばいい。1日に1本で済む。
この世にタバコ(ただしフィルター付き)はロングピースしかなければどんなにいいだろう……そうすればタバコを本当に好きな奴と嫌いな奴しかいなくなる。こいつのように、好きでもないのに吸う奴がいなくなって町はきれいになる。
俺はズボがタバコを拾うのを待った。友人思いとは俺のことだ。なぜならこいつの行動は夕焼けの野原を徘徊するシーボーズより遅いのだ。そんな気の遠くなりそうな無駄な時間を友人のために費やしてやれるなんて、俺は本当に優しい。こいつは一生理解しないだろうが。
……しばらく待ったが、ズボは何も言わなかった……失礼な奴だ。せめてあの臭さについてならなんとでもコメントのしようがあるだろう。以前に経験しているはずだ、忘れてしまったのだろうか?
……仕方ない。こいつにはデリカシーという物がないのだろう。そろそろ本題に入ってもよさそうだ。
「それで俺は薄暗くなった下駄箱に行ったんや。」
「それで、どうやったんや。」
「臭かった。」
一瞬、俺を見る目に確かに殺気を感じたが、奴はすぐに目を伏せた。それでいい。ここで俺を殺したら、2人のこれまでの10年はどうなる。俺にとってはこいつとの10年など別にどうでもいいが、こいつにとって俺との出会いは人生の最も貴重な財産なのだ。
それにしてもやはり気になる。どうしてこいつには学校の下駄箱の臭さがわからないのだろう。忘れられようはずがない。あんなに形容しがたくひどいものはないのである。
「先生、どこ行ってたのよ。ずっと待ってたのに。」
水曜日の夕方、部活動を終えて職員室へ戻った俺に向かって、川本良美は机に肘をついて言った。
俺の机だ。ついでながら言うと、俺の椅子にも座っていた。
「部活だよ。はい、どいてどいて。」
その言葉に彼女はしぶしぶ立ち上がると、俺の10センチ前をすばやく横切って、隣の木俣先生の椅子に腰を降ろした。
人の前を通るときはせめて“Excuse me.”くらい言うものだ。知識しか教えていない日本の英語教育最大の問題点がここに露呈されている。英語教師として責任を取り、代わりに言ってやろうかとも思ったが、生徒は甘やかしてはいけない。
そういうわけで俺は無言で、それまで川本が座っていた自分の椅子を通り過ぎて奥のコーヒーメーカーまで歩み、確か4時頃自分で煎れた煮詰まったコーヒーをマグカップに注いだ。
「どうしたか聞いてくれないの? いけずー。」
背中から声が追ってきた……これだ。俺は頭を抱えたくなった。手がマグカップでふさがっていなかったら本当にそうした。
誰がこいつをこんなふうにしたんだ……今や女子高校生の3分の1はこんな話し方をするようになってしまった。そしてあとの3分の2には日本語が通じない。
「子供は寝る時間だよ。」
俺は職員室に掛かっている、チャイム機能を持つせいで破滅的なデザインを恥ずかしげもなくさらしている時計を見た。
午後6時10分。
「…で、何?」
「頼みがあるの。」
俺の的確な指摘には何の反応も示さず、川本はまっすぐ俺を見て言った。
……大きくて印象的な目。自分が副担任をつとめているクラスの子なのだが、4月から約4ヶ月、正面から近距離で顔を見たことはなかった。よく見るとわりかしきれいな子だ……あくまでもわりかしだが……少し唇が厚いけど眼鏡がよく似合う……だんだん印象が良くなってきた。
一言ほめてやろうかとも思ったが、俺の奥ゆかしさが邪魔をし、出てきたのは全く違う台詞だった。
「金なら貸さんぞ。」
「違うわよ。」
あっさりと返された。くじけない子だ。
「だから、すぐに下駄箱の前に来てね。」
……一体いつから女子高校生はこんなに図々しくなったんだろう。俺が高校の英語教員になって4年あまり、彼女らの図々しさは加速しているようにも思える。世界最初の女子高校生はもう少しおしとやかだったのではないだろうか。会ってみたいものだ…
…もし30才以下なら……
……気がつくと、川本はさっさと職員室を出てしまっていた。
くじけない上に図々しい上に冷たい奴だ。
だいたい、頼みごとというのは相手の返事まで聞いて、肯定の返事をもらってから移動を開始するのが世の常識というものではないか。そんな躾もされていないなんて、親が悪かったのだろうか……いや、良い親の方が子供は悪くなるという説もある。親がどうとかいうのは現象を後から観た理由付けに過ぎない。それに、過去を振り返ってもしかたない。頼みごとはなんだかしらんが今は川本の将来を考えてやらねば、うん。
だから下駄箱に行こう……コーヒーを飲んでから。
だいたい、部活動で疲れた身体で、さらに勤務時間もとっくに過ぎているのに生徒の頼み事を聞いてやるなんて、これこそ『教育的配慮』というやつだ。
……『教育的配慮』。
……うん、いい言葉だなあ、これ。
よく意味は知らんけど……
2
「……というわけだ。」
その夜、8時40分過ぎ、場所は岐阜市真砂町にある「北中部放送宣伝株式会社」一階の事務室、兼、我が何でも屋ブルーグラスバンドScarecrow(スケアクロウ)の練習室。
俺の目の前には、この宣伝会社の跡取りでスケアクロウのベ-ス弾き、と同時に俺の10年来の超悪友、『ズボ』こと長谷部が座っていた。
「だから?」
黙っている俺に向かってズボはタバコをくわえたまま聞いた。マイルドセブンFK。嫌なタバコだ。
味のないタバコを吸う奴の気持ちが俺にはさっぱりわからない。大体こいつとは昔からタバコの趣味が合ったことがない。高校生の頃、俺がセブンスタ-を吸って、ズボはサムタイムだった。大学に入り、俺がロングピース、ハイライト、ゴールデンバットと着実に趣味を上げていくのに対し、奴はあろうことかセーラムを吸うまで身を落した事がある。そういえば仲間内で初めてミスタースリムとモアをくわえたのもこいつだった。あーおぞましい。日本人の男性でこのタバコが似合うのはピーターと美川憲一だけだ。
「だからって?」
俺はつっけんどんに聞き返した。奴がミスタースリム(それもメンソール!)をくわえた姿を思い出し、気分が悪くなったからに他ならない。なんで世の中にはこんなに味もないくせに名前だけ変えたタバコが多いのだ?
「話の続きだよ。」
「そんなにあせるな。」
「おまえなあ……」
ズボはタバコをゆっくりもみ消した。俺とは正反対の白くて長い指。今度はモア(の緑の箱のメンソール!)を思い出した……あー気持ちが悪い。
ミスタースリムとモアとどっちを取るかと聞かれたら、俺は迷わずカルティエヴァンドームを選ぶ。
「30分もかけて前置きだけ話しやがって、いつになったら仕事の話になるんや。」
「俺は学校の下駄箱が嫌いなんや。」
「……なんで?」
「臭い。」
奴はくわえかけたタバコを床に落した。いちいちやることの派手な奴だ。こうやって女をだますのだろう。
それよりいつからこいつはチェーンスモーカーになったんだろう。FKなんか吸うからだ。そんなタバコで足るくらいならロングピースを吸えばいい。1日に1本で済む。
この世にタバコ(ただしフィルター付き)はロングピースしかなければどんなにいいだろう……そうすればタバコを本当に好きな奴と嫌いな奴しかいなくなる。こいつのように、好きでもないのに吸う奴がいなくなって町はきれいになる。
俺はズボがタバコを拾うのを待った。友人思いとは俺のことだ。なぜならこいつの行動は夕焼けの野原を徘徊するシーボーズより遅いのだ。そんな気の遠くなりそうな無駄な時間を友人のために費やしてやれるなんて、俺は本当に優しい。こいつは一生理解しないだろうが。
……しばらく待ったが、ズボは何も言わなかった……失礼な奴だ。せめてあの臭さについてならなんとでもコメントのしようがあるだろう。以前に経験しているはずだ、忘れてしまったのだろうか?
……仕方ない。こいつにはデリカシーという物がないのだろう。そろそろ本題に入ってもよさそうだ。
「それで俺は薄暗くなった下駄箱に行ったんや。」
「それで、どうやったんや。」
「臭かった。」
一瞬、俺を見る目に確かに殺気を感じたが、奴はすぐに目を伏せた。それでいい。ここで俺を殺したら、2人のこれまでの10年はどうなる。俺にとってはこいつとの10年など別にどうでもいいが、こいつにとって俺との出会いは人生の最も貴重な財産なのだ。
それにしてもやはり気になる。どうしてこいつには学校の下駄箱の臭さがわからないのだろう。忘れられようはずがない。あんなに形容しがたくひどいものはないのである。
作品名:Grass Street1990 MOTHERS 1-9 作家名:MINO