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鳴神の娘 第二章「大和の皇子」

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 驚いて斐比伎は振りかえる。すると、先程の声を合図にしたように、物影から数人の舎人(とねり)が飛び出してきて、あっという間に斐比伎を取り囲んだ。
「な、何よいったい……」
 斐比伎は呆然と呟く。そんな彼女に向かって、舎人の一人が不穏な声で言った。
「見かけぬ顔だな。娘、ここで何をしていた」
「……何もしてないけど」
「ふざけたことを言うなっっ」
 怒気も荒く叫ぶと、舎人は斐比伎に銅剣の切っ先を突きつけた。
「……っ」
 物騒なものを目の当りにして、一瞬斐比伎は怯む。
「ここがどこだか知っているのか?」
「しっ、知らないわよ」
 後退りながら、斐比伎は気強く言い返した。
「では何故こんなところをうろついている?」
「散歩してたら、迷子になっただけよ」
「……随分と陳腐な言い訳だな。間者にしては、頭の悪い女だ」
 舎人は嘲るように言う。それを聞いて、斐比伎は仰天した。
「間者ですってえ!? この私があ?」
 予想もつかぬことを言い出され、斐比伎は呆気にとられてしまった。
 しかし、彼女を見据える舎人たちの目は、とてもではないが冗談を言っているようには見えない。
「小娘といえど、容赦はせん。じっくり取り調べて、どこの手の者か吐かせてやる」
 舎人の顔は本気だった。彼は、斐比伎が間者であると頭から決めつけているようだった。
「冗談じゃないわよっ。私が間者だなんて!いい、よーく聞きなさいっ。私はき……」
『駄目じゃ、斐比伎!』
 「吉備の姫」と言いかけた斐比伎を、少彦名が鋭く制止した。襟の中に隠れた彼は、小声で斐比伎を諭す。
『こんなところで身分を明かしてはならん』
「……っ」
 斐比伎は悔しげに唇を噛む。確かに少彦名の言う通りだった。
 舎人達は、斐比伎をどこぞの間者と決めつけている。こんな状況で「吉備」の名を出せば、事態が更にややこしく悪化することは明白だった。
(……でも、じゃあ、どうすればいいっていうのよっ)
 舎人を睨み付けながら、斐比伎はいらいらと考える。反駁しなくなった斐比伎を見て、舎人は下卑た笑いを浮かべた。
「……観念したようだな。じゃあ、こっちへ来い」
 舎人の一人が、斐比伎の左手首を掴む。
 その瞬間、斐比伎の体内を、形容しがたい激しい嫌悪が突き抜けた。
「触らないでよ下衆っ!!」
 斐比伎は叫ぶ。同時に、彼女の指先から強い雷撃が放出された。
『斐比伎いかん!』
 少彦名は叫んだが遅かった。
 斐比伎の放った雷撃は、空気を焼いて舎人を打つ。
 雷に貫かれた舎人は、立ったまま失神した。
(しまった、つい……)
 我に返った斐比伎は、力の抜けた舎人の手を振り払った。支えを失った舎人は、そのまま木偶のように地面に崩れ落ちる。
 水を打ったような沈黙が、その場に満ちた。
(どうしよう、最悪だわ……)
 倒れた舎人を見ながら、斐比伎は暗澹とした気持ちで考えた。吉備国内でさえ、人前では決して見せてはならぬと戒められていた力を、大和宮殿の真ん中、しかも宮を護る舎人たちの前で顕してしまうなんて。
 一体、この場を、どうすれば--。
「ばっ、化物だぁっっ」
 沈黙を破ったのは、若い舎人だった。
「この女は、大和に仇なす大禍津日神(おおまがつひのかみ)の使いだ!」
「化物!?」
「化物だっ」
「禍津の巫女だ!!」
 若い舎人の発した恐慌は、あっという間に周囲に伝染した。彼らは後退りながら、恐怖に満ちた目で斐比伎を凝視している。
(禍津日の巫女ですってえ!? 言ってくれるじゃないの!)
 あまりにも恐れられるので、斐比伎はだんだん腹立たしくなってきた。
 大禍津日神は、黄泉国から戻られた伊邪那岐神が、その穢れを祓おうと禊を行なった際に生まれた災禍の神霊である。
 斐比伎は確かに水の巫の異端だったが、決してそんなものと較べられる巫女ではなかった。
「禍津の巫女! 大和から消え失せろっ」
 舎人のうちの一人が、果敢にも斐比伎に銅剣を向けた。
「うるさいわねえっ! 誰が禍津よっ」
 斐比伎は舎人を一睨みする。気圧されて舎人は剣を落とし、腰を抜かして尻餅をついた。
『……のう。いっそ、禍津の使いのふりをして、奴らをけむにまいてしまわぬか?』
 少彦名が小声で言った。どうも、その口調には面白がっているようなふしがある。
「そんなことしたら、後でもっとややこしいことに……」
 斐比伎は苛々と返す。
 --その時だった。
「……何をしている?」
 突如、背後から第三者の声がかかった。驚いて、斐比伎は振りかえる。
(うわあ…………)
 瞬間、斐比伎は全ての状況を忘れて呆然と立ち尽くした。
 傍にある建物の回廊に、一人の美しい人が立っている。
「綺麗……」
 斐比伎は思わず声に出して呟いた。それが聞こえたのか、その人は微かに口元を緩める。
 その人が微笑んだ刹那、斐比伎は周囲に桜花の舞い散る幻影を見た気がした。
「……木花咲夜姫(このはなさくやひめ)?」
 斐比伎は呆然と見惚れて言った。真冬にそんな奇跡が起こせるのは、桜花の化身である、かの神霊でしかありえない。
「いや、違う」
 その人は落ち着いた声音で言った。解き下ろした長い黒髪をかきあげながら、斐比伎達の方へ近づいてくる。  その人が歩くたび、シャラシャラと足結(あゆ)いの銀鈴が清らかな音を立てた。
(……え? 「足結い」の鈴?)
 ふと我に返り、斐比伎はその人を凝視した。よく見れば、「彼」はきちんと袴を履いているではないか。
 姫神もかくやというような、色白で端麗な面に惑わされてしまったが、彼は紛れもない「男」であった。
(……父様より綺麗な男の人なんて、初めて見たわ)
 斐比伎は斬新な衝撃を覚えた。確かに、豊葦原は広い。よもや、美の化身・木花咲夜姫と見紛う「男」がいようとは。
 彼は階段に近づくと、傍の欄干に、その細身で優美な体躯を預けた。
「……何をしていたのだ?」
 欄干にもたれたまま、彼は舎人に言った。
「こ、これは皇子さまっ……」
 舎人たちは一斉に畏まり、彼に向かって跪いた。
「皇子!?」
 斐比伎は驚き、彼と舎人達とを見比べる。
 自分を凝視する斐比伎を一瞥し、彼は曖昧に笑った。
(確か、大和の皇子は三人いらしたはずだわ。白髪の皇子は異形のお姿でいらっしゃるから、この方とは違うとして……それじゃあ、背格好からして、今年十九におなりの、磐城の皇子様……)
 斐比伎はしげしげと、皇子を眺めた。
 今夜、祝いの宴で遠くからお目にかかるはずだった「日継の皇子」。よもや、このような場で出会うことになろうとは--。
「いえ、怪しい女が宮の中をうろついておりましたので、取り押さえようといたしましたところ、女が暴れまして……」
 舎人の一人が奏上する。
「怪しい女? ああ」
 皇子はちらりと斐比伎に目をやり、そのまま言を紡いだ。
「離してやりなさい。その娘は、私の新しい采女だ。おかしなものではないよ」
「采女? しかし、皇子様……」
 舎人は困ったように斐比伎を見やった。斐比伎の身につけている装束は、どう見ても采女のものではない。それに彼女は、不審者として問い質されるに充分な事態を巻き起こしたばかりだった。