架空植物園
積立預金の木
「3年待ってくれないだろうか」
彼の言う言葉に対して、はっきりした返事はしなかったのだけれど、彼はイタリアに修行のために行ってしまった。そしてもうその3年は過ぎてしまっている。イタリア料理店の店を出すという彼の夢を叶えてもらいたいという気持ちはあるものの、逢えない長い年月は辛かった。メールのやりとりはしている。たまには電話で話もしている。そして、あと1年という彼の言葉を信じて待って、ほぼ1年経った。どうにか修行に目途がついたという彼の声は明るく元気に聞こえた。
わたしも彼も会いたいという気持ちがあるのだから、わたしが彼のいるイタリアに行けばいいのだろうけど、高所恐怖症なので、飛行機に乗ろうとしたこともなかった。彼がわたしに会いに来るということも出来る筈だが、彼は時間的にも経済的にも無理をすることは無いと思っているようだ。
わたしは、いつものようにアパートの入口にある《積立預金の木》という常緑樹を見ながら駅に向かった。わたしは、朝と夕にこの木を見て過ごして来た。男のいなかった3年間、彼と知り合って何度も一緒に通った3年間。そして彼がイタリアに行ってしまってからの4年間。どうしても目に入る木。あまり大きく育った印象も無いし、まだ花が咲いたのを見たことはない。
入居時、一度だけ会ったことのある大家さんに、その木の名前を聞いたのですが、「父親が言うには積立預金の木だと言っていたなあ。そんな名前の木がある筈が無いと思ってたけど、調べたことも無い」ということだった。わたしは《積立預金の木》という植物らしくない名前なので覚えていた。
彼が、もう少し経てば帰ってくる。仕事を終えたわたしはアパートに足取りも軽く感じながら帰ってきた。《積立預金の木》が「お帰り」と言っているようにも思えた。不思議なものだ。いつもは無愛想な木とさえ思っていたのに。私は言葉に出さずに「ただいま」と言う。2階への階段も軽々と登り終えた。
実際にわたしは、積立預金をしているのだった。最初は結婚式のためと思っていたけれど、彼と結婚できて、彼が自分の店を出す時のために使ってもいいと思い始めている。それとは別に長年逢えない彼へのわたしの気持ちも積み立てているようにも思えた。ふと気付くと、わたしの頭の中には《積立預金の木》がある。もしかしたら自分でも気づかないうちに「積立預金の木」と呟いているかもしれない。
* *
いつもと違う。わたしはそう感じた。《積立預金の木》から微かに香ばしい果物のような匂いがしている。念のために辺りを見渡して見た。初夏に入ろうとしている季節、1階の住人が手入れをしている狭い庭には色々な花が咲いている。しかし、それらしいものは見当たらなかった。帰ったときに確認してみようと、わたしは駅に向かった。
やはり《積立預金の木》から甘い匂いが出ている。やっと2階に届く程度の低い樹高の木をじっくり眺めてみた。濃い緑の葉が密生していて、すぐには気付かなかったが、葉と違う色と形のものが見えた。実? 花が咲いたことが無いのに実がなる? わたしは次第に暗さを増す中で、確認を明日にしようと疑問符を頭の上に浮かべながら部屋に入った。
夕飯を済ませたあとに、わたしはPCに向かい植物図鑑の検索で色々と調べてみたが、全くわからなかった。比較的近いのが唐種招霊《カラタネオガタマ》という木だった。
――中国原産で江戸時代に渡来した常緑小高木。暖かい地方の神社の境内や庭木などで植えられている。樹高は3から5m。花期は5月から6月頃で、バナナのような強い甘い香りがある。――
《積立預金の木》は毎年咲かない。というより咲いたのを見たことがない。でもこのカラタネオガタマの変種かも知れないとわたしは思った。この栄養分の少ない場所で、少しずつ養分を貯め込んで花を咲かす準備をしているのかもしれない。何十年もかけて。わたしはその長い年月を、自分の人生も振り返りながら思う。いずれにせよ、明日朝にしっかり見ようと思いながら眠りについた。
* *
朝一番に、生ゴミの入ったビニール袋を集積場においた時に、もうその香りは漂っていた。昨日よりかなり甘く強い匂いになってきている。わたしは《積立預金の木》の花が咲いているのをしっかりと見た。実かなと思ったのは蕾みだったようで、今朝はそれが六つに割れた感じで大きく広がっている。それが二つあった。それが二つということで、わたしは理由のつかない嬉しい思いが甘い香りとともに身体に広がるのを感じた。
彼に報せようと思ったわたしは、ケイタイをとりに部屋に戻った。バッグからケイタイを取り出した瞬間に受信を報せる音が鳴った。
「おはよう!」
彼の声だった。わたしは咄嗟に「え、どこにいるの?」と応えていた。
「さ、どこでしょうね」
彼の悪戯っぽい言い方に、もしかしたら日本に帰って来ているのかも知れないと感じた。彼は時々わたしを驚かせるようなことをする。
「下へ降りておいでよ」
彼の言葉はイタリアに居れば出来ないことばだった。わたしは部屋を出て、走るように階段を降りた。甘い匂いを感じながら。
彼はわたしを見てにっこり微笑み、それから《積立預金の木》を振り返った。
「咲いたんだね」
「うん」
わたしは「おかえり」の言葉も言わず、彼の背中に抱きついた。彼はそのままの姿勢で「満期になったんだ」と言った。
「そう、積立預金の満期」
わたしは、《積立預金の木》を見ながら会社を休む理由を考えていた。
了