鳴神の娘 第一章「雷(いかづち)の娘」
「吉備の血を一滴も引かぬ者が、吉備の王になるなんて! そんなこと、一族も、我々も--いいえ誰よりも、大吉備津彦命がお許しにならないわ。次の王なら、あの姫でなくても、王族の中にふさわしい方がいくらでもいらっしゃるじゃないの!」
「……『次の王』などと、不吉なことを軽々しく口にするでない。建加夜彦王はまだまだお元気じゃし、これから先何年も生きなさる。巫女のくせに、言霊を忘れたか」
大巫女が、揺るやかに叱責した。はっと我に返った巫女見習いが、慌てて畏まる。
「申し訳ございませぬ、大巫女さま……」
「--先のことなど、今はよいのじゃ。それに、王選びなど、我らの口出しすることではないわ。それよりも、今問題なのは、目前に迫った神事。斐比伎姫は、まこと連なるを諦めてくれるや否や」
大巫女は困惑した顔で頭を振った。
青帯の巫女が、宥めるように大巫女に話しかける。
「けして、頭の悪い子ではないと思いますよ。時をおけば、わたくしたちの申したことも理解できるはずです。……ただ、年のわりに幼いところが多く残っていますね。そのせいか、性質にずいぶんと苛烈な部分が多い……」
「そう。それがあの姫の恐ろしいところじゃ」
大巫女は、両手を握り締めて言った。
「心と力は繋がっておる。心が荒れる程、力もすさぶるものじゃ。……吉備の血を継がぬ者が王族に紛れている事など、大した事ではない。そんなものは、表向きの理由にすぎぬ」
「大巫女様、それはいかに?」
巫女見習いが不思議そうに訊ねた。大巫女は、ただ独言のように言を続ける。
「吉備は大吉備津彦命と共に火之迦具槌神の加護を受ける火の国じゃ。……ここの社ならば、まだよい。しかし、あの姫を中山の吉備津の社に入れる訳にはいかぬのじゃ。あそこには、ご神体の『忌火』がある……」
「大巫女さまは、それを恐れておられるのですね?」
白髪の巫女が言った。
「わしは感じる。あの姫に対する根元的な拒絶の心--そう、『恐怖』と言ってもよいものじゃ。あれは異端者じゃ。けして、我ら火の巫女が、火の国が受け入れる事のできぬ者……。そんな娘をご神体に近づければ、どんな災いを受けることか……」
「建加夜彦王も困ったこと。一体どのようなおつもりで、あんな者を拾ってこられたのか」
盲の巫女が呟いた。
「姉巫女様? どういうことですか?」
今一つ理解しかねる巫女見習いが、盲の巫女に訊ねる。盲の巫女は答えず、大巫女の方を促した。
「はっきりとしたことは解からぬ。しかし、我ら焔の属性と相対するもの。真向かうもの。それは、恐らく……」
--時は、泊瀬の大王(後の、第二十一代雄略天皇)の御代。
かつて国中を巻き込んだ動乱も一通り納まり、豊葦原の国々は、とりあえず大和朝廷の大王に恭順を示す事で、平和の均衡を保っていた。
だがそれは、けして大和が豊葦原の支配権を確立したことを意味するわけではない。
豊葦原では今も、出雲、筑紫、蝦夷……等の巨大国家がそれぞれの独自の繁栄を誇っており、すきあらば自らが覇権を奪おうと水面下で牙をといでいる。
各地の巨大王国は、無用な争いを避けるため、大和の大王をかりそめの盟主として認めているに過ぎなかった。そして大和は、無論そんな自国の危うさを誰よりも強く認識している。それ故に彼らは大王の権威を周囲に知らしめし、他国の勢力を削ぐことに余念がなかった。
そんな大和にとって、身近な脅威の最たるもの--それが、他でもない吉備国だった。
吉備には幾つもの大きな河があった為、その恵みによって、豊富な農作物の収穫を得ていた。しかも、瀬戸内の海を領内に有していたので、塩もとれる。古来より他国との交易もさかんで、様々な品や技術が入ってくることから、全国の先進地ともなっていた。
これだけの好条件に恵まれた吉備が、巨大国家へ成長しないはずがない。しかも、吉備は地理的にも大和から遠くない場所に位置している。いつ大和にとって変わってもおかしくない、危険な巨大王国--それが吉備だった。
大和は長年に渡り、吉備の力を削ぐために、数々の策謀を仕掛けてきた。
吉備系の姫を何人も大王の妃として差し出させ、大王家の血に取り込んでいく。その一方で、王国を分断させるため、幾度も内政に干渉し、反乱や混乱を引き起こした。
そうした大和朝廷の干渉の結果、現在では吉備王国は完全な一枚岩であるとは言えなくなってきていた。
吉備内部は、大きく上道、下道、波久岐、三野、加夜の五氏族に別れ、それぞれの連合王国のような形をとっている。
これら五つの氏の王族と、その巫女達が年に一度一堂に会する場--それが、睦月の晦日に中山にある吉備津の社で執り行なわれる『鳴釜の神事』なのだった。
--だが。
肝心な巫女達によって神事への参加を拒否された加夜王の娘・斐比伎姫は、怒れるまま、全速力で草原を疾走していた。
吉備、特に加夜地方は、温暖な気候の地域である。よって、真冬--睦月の中旬といえど、滅多に雪がつもることはない。人気の無い広い草原では、わずかに残った枯れ草が風に吹かれていたが、斐比伎はそれを踏み荒らしつつ、荒い息を吐いて走り続けた。
やがて、彼女の目の前に細い小川が現れる。川岸までたどりつくと、やっと斐比伎は走るのをやめた。
「……っ、はあ……」
肩を上下させながら、激しい息を繰り返す。浅瀬に踏み込んで、斐比伎は思いっきり水を蹴り上げた。
「……あんの、くそばばあどもっ!!」
飛沫が、色の薄い冬空に舞った。
冷たい川の水は、容赦なく斐比伎の肌を刺す。だがそれを気にすることもなく、斐比伎は拳を握り締めて空を睨んだ。
「なーにが火の巫女よっ。火をおこすことさえやっとの、権威にしばりついただけの老い
ぼればばあどもっ! あんな奴らに神意が聞こえるもんかっ」
斐比伎は続けざまに何度も水を蹴り上げた。乱暴な飛沫が一面に飛び散る。
「絶対、父様に言いつけてやるからな--!」
叫んで、斐比伎は最後に拳で水面を打ち付けた。水が顔に跳ね返り、その拍子に結い上げていた横髪が解け落ちる。
ぽちゃん、と間抜けな音をたてて髪飾りが川へ落ちた。
碧玉で飾られた金の簪が川底へ沈んでいく。
去年、大人になった祝いに、父・建加夜彦から送られたものだった。新羅との交易で手に入れたものだという。大和の王族でさえ容易には手に入らない品だというそれを、斐比伎は毎日髪にさしていた。
「吉備王族の、誇り……」
静まった水面を見つめ、斐比伎は呟いた。
冷たい冬の水面は、磨ぎ澄まされた鏡のようだ。斐比伎の顔を、正確に映し出す。
化粧などせずとも、肌は白く、唇は赤い。大きな黒い瞳が印象的なその面は、幼いが、美しいと言えるものだったろう。だがそれよりも、彼女を見た人々が一番に抱く印象--それは、「激しさ」だった。
内に抱く苛烈な魂が、覆い隠せぬ激しさとなって、斐比伎の印象を決定づけている。
「きついって、ことだね……」
斐比伎はふと苦笑した。自分でも、認めざるを得ない。
幼い頃から、よく言われたものだ。「可愛げのない子」。「なんてきつそうな瞳をした姫」等々。
作品名:鳴神の娘 第一章「雷(いかづち)の娘」 作家名:さくら