居候の夏
ぼくの住んでいる所は人口二万六千程の田舎町である。ぼくはこの町で十四年のこれまで、生まれ育ったのであるが、ある理由から今度夏休みの間、母の実家で暮らさなければならなくなった。そこは、ここよりもさらに遅れた田舎で、町ではなく村である。
その理由のことであるけれども、自分のわがままな性格からである。ぼくは野菜を受け付けなかった。嫌いではない。受け付けないのである。そう、そうすることによって自分の存在を確立していたのであろうか。とにかく、野菜を受け付けなかったのである。
そういうわけで、家でも学校でも野菜を残した。混ぜご飯に入ったシイタケもタケノコも焼きそばに入ったキャベツもコロッケに入ったグリンピースもぼくは避けた。サラダなんて手もつけない。カレーは肉ばかり食べる。
小学生の時など昼休み、友達が校庭でサッカーをして遊んでいるときもぼくは担任の教師に野菜を食べることを強要された。その為にぼくは目の前の野菜と睨めっこをしていてばかりいたのである。
家では、よくお菓子やコーラを買い食いし、それでお腹はいっぱいになり夕飯は残していた。お菓子のポテトチップスなら食べられるのだ。コーラも毎日飲んだ。体に悪いことは知っていたが、知っているからこそ、ぼくは飲んでいたのである。
中学に入ってすぐ、病気になり入院した。母は「だから言ったろう」といった。退院しても、ぼくのこの主張というか抵抗は直らず、相変わらずであった。その為、体調は悪く、通院を続けた。母は「また入院することになるぞ」と言った。その通り二年生になってすぐ、また入院した。「だから言ったろう」と言われた。当たりである。
それでも、ぼくはこの抵抗をやめない。堪り兼ねた母はぼくを実家に預ける事に決めたのである。ぼくはそれには抵抗なく従った。
夏休みの初日、母に連れられ、田舎の実家に向かった。その家は祖母と村役場に務める叔父、パート務めの叔母、それから子供が二人いて、長男は武という名で、今は大学生で東京で一人暮らしをしていて家にはいないらしい。妹は朋子といい、ぼくと同い年で中学二年生。武お兄ちゃんと朋ちゃんってぼくは呼んでいた記憶がある。小さい頃は朋ちゃんとは一緒にお風呂に入った事もあるのだけれど、小学校も高学年になった頃から、田舎に両親が行くと言ってもぼくは家でゲームしてる方がいいとかいって行かなくなったので、実は三年ぶりくらいに逢う。うまく話せるかな。
その田舎に着くと祖母が迎えてくれた。庭には立派な植木があった。大きな向日葵が一つ咲いていた。飼っている犬がぼくに向かって何度も吠えた。それが気になった。ぼくは二階の八畳の和室に案内された。そこにはぼくの好きなテレビもラジオも無く座卓と扇風機だけであった。母は「じゃあしっかりやりなさい」といって帰ってしまった。ぼくはここで四十日間も過ごすのである。
ここでのぼくの生活は一変した。ぼくは借りてきた猫のようにおとなしくなった。食事も好き嫌いなどなく納豆も梅干も漬物もトマトもなんでも食べ、牛乳も飲んだ。というか出されたものは全部食べるのである。そんな内弁慶な性格を考慮して母はぼくをここに預けたのだなと思った。祖母は何でもたべるじゃないかと笑った。ぼくは黙っていた。いいように解釈してくれることを願って。
ひとつ妥協できないことはあった。ここの家はカレーが甘口なのである。ウチのは辛口だった。さらに、ここの家の人間はみんなそのカレーにソースをかけて食べるのである。ぼくはしょうゆ派なのだ。だけど、でしゃばることの嫌いなぼくはしょうゆも何もかける事無くにいただいた。
食事や入浴の時以外はほとんど部屋に篭りきりだった。ぼくはなんでもない話とか世間話が苦手で本当は食事も部屋で取りたいくらいなのだ。
けれど、テレビもない部屋で一日を過ごすというのは退屈だった。することがないのである。家から持ってきたパーマンの愛蔵版を何度も読んだ。一日に同じ話を三回読んだこともある。その為、いつもは八月三十一日に必死に終らす宿題も順調に進んだのである。ただ、こんな生活であったがなぜか悪い気はせず、むしろ時間を潰すことに頭を悩ませているいる自分がおもしろく愉しくもあった。
昼食は居間で祖母と朋ちゃんと三人で召し上がるのである。その時祖母はNHKのニュースを付けているのであるが、裏では「笑っていいとも!」がやっているのである。朋ちゃんは観たくないのだろうか?祖母はそれほどテレビを観ているようすではない。変える事は可能だろう。なのに朋ちゃんは平静に食事しているのである。ぼくにはチャンネルを変える権力もあつかましい性格も持ち合わせていない。ここは朋ちゃんしか頼る人はいないのだ。それなのに知らん顔である。彼女にこのことを言えないぼくがいけないのだろうか。他にも彼女にはがっかりさせられたことがある。それは、祖母がプリンを買ってきて「朋子食べるか?」と聞いたら、朋ちゃんは「要らない」と答えた。その後にぼくに食べるかと聞かれたが、本当は食べたかったが、ここの家の朋ちゃんが要らないと言ったのに居候のぼくが「食べる」なんて言えるはずがない。それこそあつかましい、いやらしい男になってしまうではないか。「イイエ、いいです」と言うしかないのだ。すると、祖母は「そうか、じゃあ冷蔵庫入れて置くからあとで食べろ」と言い、ぼくの手の出せない所にいってしまうのであった。朋ちゃんにももう少しぼくを気遣ってもらいたいものである。
さらに、祖母も「朋子と一緒に外で遊んだら」とか言う。ああ、絶望。こんな時どんな顔をすればいいのだ。祖母はぼくと朋ちゃんのイトコとは言えない、いやイトコだからこそのぎこちなさに気づいていないのだ。そんなことを昼食の時に朋ちゃんの前で言うから、まさに絶望。ぼくはそんなことでも寝苦しくなる。もし誘われたらどうすればいいのだ。
ある日、朋ちゃんの友達が遊びにきた。ぼくはいつものように部屋で緩やかにドリルを解いたりしていたのであるが、もしぼくに興味など示し部屋に見に来たりしたら、非常に怖く、どう対応して良いか分からない。ぼくはそんな事を考えて部屋を抜け出した。
こっちに来て初めて外を歩く。散歩である。ここはやっぱりのどかである。ぼくは堤防に向かった。
堤防に着いたら木陰にしゃがんで腰をおろした。遠くに淀んだ川が見える。河川敷では野球を練習する小学生たちがいる。このチームは強いのだろうか。監督はやさしそうに見える。ならばきっと強いであろう。強くあってほしい。それにしても暑い。のどが渇く。野球少年たちはその内休憩し、用意してある麦茶を飲みだした。ああ、羨ましい。ぼくも飲みたいな。買い食いしないように小遣いを持たされていないので何も買えない。けど、ふと思う。我慢とか忍耐は新鮮だ。心が美しくなる。そう思ってちょっと照れた。
野球少年たちは練習が終わり解散したので、ぼくも戻ることにする。途中、どうか朋ちゃんの友達がいませんようにと祈る。
その理由のことであるけれども、自分のわがままな性格からである。ぼくは野菜を受け付けなかった。嫌いではない。受け付けないのである。そう、そうすることによって自分の存在を確立していたのであろうか。とにかく、野菜を受け付けなかったのである。
そういうわけで、家でも学校でも野菜を残した。混ぜご飯に入ったシイタケもタケノコも焼きそばに入ったキャベツもコロッケに入ったグリンピースもぼくは避けた。サラダなんて手もつけない。カレーは肉ばかり食べる。
小学生の時など昼休み、友達が校庭でサッカーをして遊んでいるときもぼくは担任の教師に野菜を食べることを強要された。その為にぼくは目の前の野菜と睨めっこをしていてばかりいたのである。
家では、よくお菓子やコーラを買い食いし、それでお腹はいっぱいになり夕飯は残していた。お菓子のポテトチップスなら食べられるのだ。コーラも毎日飲んだ。体に悪いことは知っていたが、知っているからこそ、ぼくは飲んでいたのである。
中学に入ってすぐ、病気になり入院した。母は「だから言ったろう」といった。退院しても、ぼくのこの主張というか抵抗は直らず、相変わらずであった。その為、体調は悪く、通院を続けた。母は「また入院することになるぞ」と言った。その通り二年生になってすぐ、また入院した。「だから言ったろう」と言われた。当たりである。
それでも、ぼくはこの抵抗をやめない。堪り兼ねた母はぼくを実家に預ける事に決めたのである。ぼくはそれには抵抗なく従った。
夏休みの初日、母に連れられ、田舎の実家に向かった。その家は祖母と村役場に務める叔父、パート務めの叔母、それから子供が二人いて、長男は武という名で、今は大学生で東京で一人暮らしをしていて家にはいないらしい。妹は朋子といい、ぼくと同い年で中学二年生。武お兄ちゃんと朋ちゃんってぼくは呼んでいた記憶がある。小さい頃は朋ちゃんとは一緒にお風呂に入った事もあるのだけれど、小学校も高学年になった頃から、田舎に両親が行くと言ってもぼくは家でゲームしてる方がいいとかいって行かなくなったので、実は三年ぶりくらいに逢う。うまく話せるかな。
その田舎に着くと祖母が迎えてくれた。庭には立派な植木があった。大きな向日葵が一つ咲いていた。飼っている犬がぼくに向かって何度も吠えた。それが気になった。ぼくは二階の八畳の和室に案内された。そこにはぼくの好きなテレビもラジオも無く座卓と扇風機だけであった。母は「じゃあしっかりやりなさい」といって帰ってしまった。ぼくはここで四十日間も過ごすのである。
ここでのぼくの生活は一変した。ぼくは借りてきた猫のようにおとなしくなった。食事も好き嫌いなどなく納豆も梅干も漬物もトマトもなんでも食べ、牛乳も飲んだ。というか出されたものは全部食べるのである。そんな内弁慶な性格を考慮して母はぼくをここに預けたのだなと思った。祖母は何でもたべるじゃないかと笑った。ぼくは黙っていた。いいように解釈してくれることを願って。
ひとつ妥協できないことはあった。ここの家はカレーが甘口なのである。ウチのは辛口だった。さらに、ここの家の人間はみんなそのカレーにソースをかけて食べるのである。ぼくはしょうゆ派なのだ。だけど、でしゃばることの嫌いなぼくはしょうゆも何もかける事無くにいただいた。
食事や入浴の時以外はほとんど部屋に篭りきりだった。ぼくはなんでもない話とか世間話が苦手で本当は食事も部屋で取りたいくらいなのだ。
けれど、テレビもない部屋で一日を過ごすというのは退屈だった。することがないのである。家から持ってきたパーマンの愛蔵版を何度も読んだ。一日に同じ話を三回読んだこともある。その為、いつもは八月三十一日に必死に終らす宿題も順調に進んだのである。ただ、こんな生活であったがなぜか悪い気はせず、むしろ時間を潰すことに頭を悩ませているいる自分がおもしろく愉しくもあった。
昼食は居間で祖母と朋ちゃんと三人で召し上がるのである。その時祖母はNHKのニュースを付けているのであるが、裏では「笑っていいとも!」がやっているのである。朋ちゃんは観たくないのだろうか?祖母はそれほどテレビを観ているようすではない。変える事は可能だろう。なのに朋ちゃんは平静に食事しているのである。ぼくにはチャンネルを変える権力もあつかましい性格も持ち合わせていない。ここは朋ちゃんしか頼る人はいないのだ。それなのに知らん顔である。彼女にこのことを言えないぼくがいけないのだろうか。他にも彼女にはがっかりさせられたことがある。それは、祖母がプリンを買ってきて「朋子食べるか?」と聞いたら、朋ちゃんは「要らない」と答えた。その後にぼくに食べるかと聞かれたが、本当は食べたかったが、ここの家の朋ちゃんが要らないと言ったのに居候のぼくが「食べる」なんて言えるはずがない。それこそあつかましい、いやらしい男になってしまうではないか。「イイエ、いいです」と言うしかないのだ。すると、祖母は「そうか、じゃあ冷蔵庫入れて置くからあとで食べろ」と言い、ぼくの手の出せない所にいってしまうのであった。朋ちゃんにももう少しぼくを気遣ってもらいたいものである。
さらに、祖母も「朋子と一緒に外で遊んだら」とか言う。ああ、絶望。こんな時どんな顔をすればいいのだ。祖母はぼくと朋ちゃんのイトコとは言えない、いやイトコだからこそのぎこちなさに気づいていないのだ。そんなことを昼食の時に朋ちゃんの前で言うから、まさに絶望。ぼくはそんなことでも寝苦しくなる。もし誘われたらどうすればいいのだ。
ある日、朋ちゃんの友達が遊びにきた。ぼくはいつものように部屋で緩やかにドリルを解いたりしていたのであるが、もしぼくに興味など示し部屋に見に来たりしたら、非常に怖く、どう対応して良いか分からない。ぼくはそんな事を考えて部屋を抜け出した。
こっちに来て初めて外を歩く。散歩である。ここはやっぱりのどかである。ぼくは堤防に向かった。
堤防に着いたら木陰にしゃがんで腰をおろした。遠くに淀んだ川が見える。河川敷では野球を練習する小学生たちがいる。このチームは強いのだろうか。監督はやさしそうに見える。ならばきっと強いであろう。強くあってほしい。それにしても暑い。のどが渇く。野球少年たちはその内休憩し、用意してある麦茶を飲みだした。ああ、羨ましい。ぼくも飲みたいな。買い食いしないように小遣いを持たされていないので何も買えない。けど、ふと思う。我慢とか忍耐は新鮮だ。心が美しくなる。そう思ってちょっと照れた。
野球少年たちは練習が終わり解散したので、ぼくも戻ることにする。途中、どうか朋ちゃんの友達がいませんようにと祈る。