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阿佐まゆこ
阿佐まゆこ
novelistID. 46453
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ある、春の日

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 どすん、という感じ。一瞬身体中に鈍い痛みが走り、私は地面にかがみ込みました。何かがぶつかったのです。人間でした。久しぶりに外へ出た私には、それは大事件でした。地面に突っ伏して、私は動けなくなりました。私のはるか頭上から、声が降って来ました。男の声でした。私を罵っているようでした。続いて女の声が聞こえました。私を嘲笑しているようでした。私は地面に額をつけました。女の形のいい足首と、華奢なヒールの靴が目の前にありました。私は痛みと恐れで、しばらく目を閉じてうずくまっていました。そして、ゆっくりと顔を上げました。

「なに、この変なばばあ」
大福のような顔の女が、私を見下ろしていました。
隣にいた、とうもろこしの毛のような髪の男が女の腰に手を廻していました。私は全く動く事ができず、地面に座り込んでずっと彼らを見上げたままでした。男はふっと鼻息というか溜息のようなものを漏らしました。そして女をぐっと引き寄せて歩き出し、そのまま二人は私の目の前から去りました。
 ばばあ、と言われたのはその時が初めてでした。私は呆然としていましたが、すぐそばの壁に寄りかかりながらなんとか立ち上がりました。ひんやりとしたガラスの壁で、気持ちの良い手触りでした。私は少し落ち着くことができました。そして、まっすぐに立とうと壁から手を離したときのことです。

 ガラスの中に、母がいました。そうそう、ガラスの向こうは居心地の良さそうなカフェになっていて、何人かの人がコーヒーを飲んだり新聞を読んだりしていたのです。なんという偶然、と私は思いました。一人で外出をしたこの特別な日に、外出先で母に出会ったのです。だいたいこんないいお天気の日は、母は牛込の大きな家の庭で、ベゴニアやゼラニウムやらに水をやって過ごしているはずなのですが。私は、母がガラスの向こうのカフェに居るのだと思いました。だから、手を振りました。おかあさん、と言いました。すると、私と同時に母も何か言い、私と同時に母も手を振りました。私は母に向かって手を伸ばしました。母も手を差し伸べました。

 何かがおかしい、と私は気づきました。母は何時までたっても、私のところへ来てくれません。私は少し苛々して、ガラスをコンコンと叩きました。母もコンコンと叩くのでした。私はガラスの壁から少し遠ざかってみました。すると母も遠ざかりました。ジャンプしました。手袋を外してみました。母も私とお揃いの手袋でした。手袋を外した手で、私は自分の顔を引っ張ってみました。そして、そこではっとしたのです。ガラスの壁だと思っていたのは、大きな鏡でした。そこには街の景色が映し出されていました。母はどこにも居ませんでした。私の姿が、ただ映し出されていました。私はもっと鏡に近づいて、自分の顔を確認しました。両手を上げて、手の甲と顔を並べて映してみました。私の顔にも手の甲にも、細かい皺が刻まれていました。私はその日、自分の本当の顔を見たのです。

 突然、ざざあっと強い風が吹きました。大通り沿いの桜並木が一斉に揺れて、薄紅色の花びらが吹き抜けてゆきました。その時、私ははっきりと認識したのです。曖昧であった年月の流れを。今日は、私が閉じ込められてから、四十五年目の春の日であることを、認識したのです。
 私と母の年齢差プラス四十五、という簡単な足し算の答えを、私はごく自然に頭に浮かべました。そして納得したのです。母がもう、この世界に居ないということを。そして、不当であるように感じた妹の私への怒りも、その時に少しわかりました。私はその時、大きな声を上げて泣きました。手袋はもうどこかへ無くしてしまっていました。

 その後病院に戻るまでは、ちょっと、色々とありました。とにかく私は警察へ保護され、色々と問いただされました。その時には私は持たされていた携帯電話を出して、いち、のボタンを押してみました。するといつもの女性が来て、無事に帰ることができました。
  
 最近の私は、以前より少し落ち着いています。閉じ込められてからの年月の流れが、認識できた。それが大きな進歩なのだそうです。実は最近、妹に会いました。妹の話によると、母は私の為に、もともと大名屋敷だったという大きな土地と家を手放したのだそうです。だから私は今無事に生きられているのだそうです。私は難しい話がよくわからなくなっています。でも、母がもう居ないのだということがわかっている以上、神妙に妹の話を聞きます、涙が止まらない時もあります。そんな私に妹は時々会いに来てくれます。

 
作品名:ある、春の日 作家名:阿佐まゆこ