ビッグミリオン
Untouchable
『ワシントン・ビッグミリオン本社』 四月八日 夜
「なんですって? それは確かなの?」
エリザベートの元に、待ちに待った電話がかかってきた。彼女にとってブライアンも特別な手下だったが、“特に可愛がっている”者は他にも数人存在していた。
受話器の向こうにいる男は、ハイエナと呼ばれる男だ。彼は〈代表直属のエージェント〉の一人であったが、今はエリザベートに陥落され彼女の良き情報源となっていた。その名の通り、獲物をどこまでも追い続けて行き、最後には欲しい情報を必ず手に入れてくる。
聞こえて来る内容は、今までの仕事の中で最高と呼べるものであった。何故なら、それは彼女が喉から手が出るほど欲しかった『代表と、その孫の名前』だったからだ。
「驚いたわ……鬼頭ね。ええ、篠崎は母親の名字と。え、当選者の中に? 待って、参加リストを確認するわ。――見つけたわよ、篠崎紫苑。全くあのじじいもやってくれるわねえ。じゃあ抽選を操作していたのは私たちだけじゃなかったってことね。代表から捕獲命令が出ている? 分かったわ」
受話器を置くと、頭を振りながらソファにもたれてしばらく考え込む。
本社にあるこの豪華なプライベートルームには大きな水槽が置かれ、熱帯魚が優雅に泳いでいる。涼しい顔をして泳ぐ魚たちに目をやりながら受話器を再びとると、どこかに電話をかけ始めた。
「いいニュースよ、ブライアン。代表の孫はどこにいたと思う? 違うわ、ベガスよ。『篠崎紫苑』って名前聞いたことあるでしょ? すぐにDOLLとアーノルド、そしてベイブを使って捕獲しなさい。え、ベイブが襲われた? じゃあ、あなたがすぐにベガスに飛びなさい。プライベートジェットを手配するわ。あ、本社からも捕獲部隊が行くと思うけど『生きたまま』先に手に入れるのよ。絶対に代表の手に渡す訳にはいかない」
受話器を叩きつけるように置くと、つま先に引っ掛けていた赤いピンヒールを履きなおした。
「万能ワクチンさえ手に入れれば世界は私のもの。大事に培養しなきゃね」
エリザベートが上機嫌になっている頃、ホテルのBARには謙介と紫苑の姿があった。
「あとはアーノルドからの電話を待つだけだな。おい紫苑、ちょっと飲みすぎだぞ」
俺たちは丸い氷の浮かんだグラスを傾けながら、薄暗い照明を投げかけているカウンターに腰掛けていた。水割りは既に二杯目だが、もうすぐあずさも来るはずだ。
奇跡の勝利をおさめて三百二十万ドルもの大金も手に入った。そう、あとは新ワクチンをもらえばこのベガスとはおさらばだ。けど……どうにも俺の心は晴れなかった。
(もし日本に帰っても、家族や友達、いや人類もいつかは感染してしまうだろう。果たしてそれでいいのか?)この考えが頭の中をぐるぐるとまわり、さっきからどうしようもない無力感に襲われている。
「ねえ、謙介さんもたぶん同じ事を考えてると思うけど、このまま俺たちだけが助かっても何も解決しないよね。新ワクチンを一人でも多くの人に分け与えるには、どうしたらいいんだろうね」
紫苑は目を伏せそう言うと、目の前のグラスを一気にあおる。
「一人でも多くの人を……か」
「――実はね、昨日久しぶりに母さんと電話で話したんだ。そうだ、母さんの話をするのは初めてだったよね」
「ああ。俺たちはチームだけど、深いところまでは実は良く知らないんだよな」
肘をつき目の前に持ち上げたバーボンが、彼の片眼を鳶色に染めている。
「出発前に母さんがさ、心配そうな声で『紫苑、身体だけには気をつけるんだよ』って言ったんだ。でね、昨日の電話でも同じことを言ったんだよ。自分の身体の方がこれから危ないってのにさ。なんかたまらない気持ちになって、泣きそうな声が出る前に電話を切ったよ。俺、父親がいないから、代わりに母さんを守らないといけないのに何してんだよって」
悔しそうに唇を噛み目を落とすと、カウンターについたグラスのしずくを指で広げる。こいつの、こんな悲しく、複雑な顔は今まで見た事がなかった。
「そうだな。何とかしないといけない。俺たちに家族がいるように、世界の人たちにも家族がいる。なあ、俺考えたんだけど、この賞金を全部使って」
分かってるという風に手のひらを見せて、俺の言葉を遮った。
「新ワクチンを増やすために使おうって言うんだろ? 同じことを考えてた。実は俺、フラッシュバックのしたように突然思い出した事があって部屋で調べたんだけど、ワシントンに民間の依頼でもワクチンを培養してくれる所があるらしいんだ。その施設の写真を見たら、どうもここは俺が子供のころ連れて行かれた事がある研究施設のような気がするんだ」
そうか、コイツも同じことを考えていたんだ。すーっと気が楽になっていく。
「俺が殴ったからフラッシュバックしたのかなあ。そうだ、もう一度殴ったらもっと思い出すかも」
「それはお断りだけど、確かに俺、子供の頃の記憶が一部無いんだよね。まあいいか。じゃあ、もしあずさも同意してくれたらすぐにそこへ連絡してみようよ。……じゃあ使っていいかな? せっかく勝ち取ったお金だけど」
グラスを置き、俺の方をゆっくりと向く。その眼は強い意志と、仲間に対する信頼感であふれていた。返事のかわりに無言で頷くと、紫苑の振り上げたコブシに自分のコブシをこつんとぶつけた。
「しっかしあずさ遅いなあ。化粧ついでに荷物でもまとめてんのかな。まさかの免税店だったりして」
この言葉にふと周りを見回すと、BARの中にいつの間にか俺たちしかいない。おかしなことにバーテンも客もいないのだ。がらーんとした店内のジュークボックスからは、〈レイディ〉を歌うケニー・ロジャースの声だけがタバコの煙に混ざりながら流れていた。
「おい、何かヘンだぞ。とりあえず部屋に戻ろう。あずさが心配だ」
ポケットからしわくちゃの十ドル札をつまみ出してカウンターに投げると、俺たちは乱暴にドアを開け店を出た。
「これは? ――謙介さん! 人が誰もいないよ!」
パラッツォ・リゾートホテルの中は無人だった。そう、言葉通り『人間がどこにも見当たらなかった』のだ。
誰もいないフロントの前を駆け抜け、エレベーターのボタンを連打する。いつもなら観光客で賑わうロビーにも、ラウンジにも人影は一切ない。それどころか、車止めに常駐しているはずの陽気なボーイさえも見当たらないではないか。
こいつは賭けてもいい、いつものおしゃれなエレベーターガールもきっとかき消えているはずだ。
「とにかく急ごう。これがもし夢じゃなかったら、とんでもない事が起きてるぞ!」
扉が開くのを待つのももどかしく、エレベーターに飛び込んだ。想像していたとおりエレベーターガールもいなかったが、誰かがさっきまでいた気配はかすかに感じられる。
エレベーターの扉が開くと、無人の廊下を走り抜けロックを外し部屋に飛び込む。
「おかしいな」
――あずさの部屋のドアだけが開きっぱなしだった。テーブルの上には、デジカメからプリントアウトしたと思われる写真がきれいに並べられている。俺といろいろなポーズをしながらルクソールホテルで撮った写真だけが、別に分けられていた。