ビッグミリオン
発端
二〇一九年 三月
事の始まりはインターネットの海外サイトからだった。
IT企業に就職した俺は毎日忙しく、ついには度重なる残業続きで倒れ、二十五才の若さで身体を壊してしまった。いわゆる今流行りの『ブラック企業』に見事に就職してしまったのだった。
「上条謙介さーん、お薬の時間ですよ。あー、またパソコンやってる」
いつもの若い女性看護士さんが、きびきびした足取りで病室に入って来た。
「明後日退院だと思うと、眠れなくて。うーん、退職願いを出しに会社行くの嫌だなあ……」
「もう、若いのに何言ってるんですか! “自分のやりたい道を進めば”いいんです。今からでも遅くないんですから」
「年下の君に若いとか言われたくないけどな。でも、自分のやりたいこと……をか」
彼女の元気のいい言葉で、この時俺の中の何かが吹っ切れたような気がした。
次の日、相変わらずベッドでノートパソコンをいじっていると、バナー広告がすっと移動したように感じた。そしてこの『ビッグミリオン』のホームページがまるで『そこに行きつくのが当然なように』目に飛び込んでくる。そこにはいかにもうさんくさい見出しが、次のようにでかでかと書かれていた。
【十日間で五十万ドルを百万ドルに増やせば大金ゲット! 参加費用は一切かかりません】という単純なものだった。どうやらこれを成功させたチームには、一人あたり百万ドル(一ドル=百円固定で一億円)の賞金が与えられるようだ。ミッション失敗についても【五十万ドルの返済義務は発生しません】と書いてあるから一見リスクは無いようだった。
一億円? いちおくえんだって? 俺には全く想像がつかない額だ。
昨夜遅くまで悩んでいたが、退院したあと過労死寸前まで追い詰められた会社に、もう戻る気はさらさら無かった。
「みんな寝てなくて辛いけど、納期までに終わらせよう。力を合わせて頑張ろうぜ!」
深夜の会社でのこんな俺の言葉は誰にも届いていなかったようだ。あまりにも過酷なスケジュールに同僚や後輩がひとり、またひとりと会社を辞めて行く。生気がだんだん失われて行く人間の顔は総じて蒼白で、目の下がくぼんでいた。
「お前の指示が悪いんだよ! リーダーシップも取れないのか!」
上司によく言われた言葉が思い出される。きっと俺には、人を引っ張って行く力など無いんだろうと毎日落ち込んだ。この時期には少し自分も精神的に病んでいたのかもしれない。
ところで、そのサイトには申込みフォームがあり、住所、氏名、年齢、連絡先しか書くところが無かった。
【申し込み者が多い場合は三十万人で締め切ったのち、抽選で結果をお知らせします。なお虚偽の申告をした場合は、無条件で落選となります】とも書いてあった。
サイトの左上には今現在の申し込み人数が表示され、それによるともう十二万人を超えていた。
「まあ、抽選に当たる方がおかしいけど、一応申し込んでみるか」
ベッドで独り言を言いながら、俺はこのチャンスに結局応募してしまっていた。
渋谷あずさはネイリストだった。十八歳からこの世界に入り、二年が経った現在では池袋で個人の店を出すまでになっていた。
今どきのメイクとファッションをした目鼻立ちの整った美人だ。少し高く、柔らかい声も手伝って、彼女に初めて会ったほとんどの人は好印象を抱くだろう。だが、そんな彼女もプライベートではあまり心から笑うということが無かった。こと恋愛に対してあずさは不器用であり、どこか冷めてしまっている部分が見受けられる。もちろん恋人がいた事もあったが、恋人よりもいつも仕事を優先させていたゆえに、お互いの時間が噛み合わず、心はいつの間にか離れていってしまうのだ。
「いらっしゃいませ。ご予約の方ですね。ご案内します」
この日は一段と客が少ない日だった。
あずさの店は池袋の一等地ということもあり、家賃がべらぼうに高い。客足が少ない店は経営がすぐ行き詰ってしまうので、休んでいる暇などなかった。彼女の経営するネイルサロンの周りにも安さが売りの競合店が現れ、最近はだんだん経営が困難になってきていた。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
持ち前のプライドからか、決して値段と質は下げずに頑張ってきたが、そろそろプライドを捨てる覚悟がいるのを、日々あずさは感じているようだった。
昼休みになり、タブレットをいじっていたあずさはこのサイトに出会ってしまう。
「え、これって本当なの?」
【十日間で五十万ドルを百万ドルに増やせば大金ゲット!】という話は、今の彼女にとって非常に魅力的だった。
(賞金一億円。それだけあれば経営を立て直せる)と考えるのは当然だ。
しかし募集人数が既に二十万人を軽く超えているこの『ビッグミリオンチャレンジ』に当選する確率に絶望したのか、突然顔が曇りふうっとため息をつく。
「ね、これ見て。宝くじを買ったほうがまだましかしら?」
あずさはアルバイトの店員に近づくとタブレットを見せる。
「あ、それですか? 結構有名ですよ、そのサイト。実は私も先週応募したんです。二人とも当たったらいいですよね」と笑顔で答えた。
篠崎紫苑の趣味は“身体を鍛える事”だ。小、中学校では身体が小さいためいじめられっ子グループの一員だった。だが高校入学と共にボクシングに入部し、身長もめきめきと大きくなり高校二年生の時にはその才能が認められてボクシング部主将になった。それまでに毎日努力したことにより、彼は強靭な肉体を作りあげたのだ。
『いじめているヤツより強くなればいい』――その頃の彼の口癖だ。
その甲斐あってか、いじめはとっくに無くなったが、紫苑は強くなってもいじめていたグループの奴らに決して仕返しをしなかった。
だが――ある日、クラスの男子生徒が眼を赤くしてこっそり泣いているのを見つけた。
「どうしたんだ?」
「何でもないよ」
「いいから話してみろよ」
紫苑は、自分の過去の経験から何かを感じ取ったようだ。
ぽつり、ぽつりと彼は話し始める。それを聞いている紫苑の顔がみるみる赤くなっていく。なんでも母親が作った弁当を床に捨てられ、汚い上履きで次々に踏みにじられたらしい。いじめられっ子の彼は家庭が貧しく、父親が早死にしてしまって母親しかいなかった。勤めに出る間に母が早起きして作った弁当を踏みつぶされたのが悔しかったらしい。床に潰れて転がっている赤いウインナーに目を移した瞬間……紫苑の中で何かが切れた。
「ひでえ話だな」
その後、瞬く間にいじめっ子グループ全員を半殺しにしてしまった。それがきっかけで彼は退学になり、そのまま地元では知らない人はいないほどの不良になっていく。
紫苑の両親も中学生の時に離婚して母親が彼を引き取っていた。片親の子の気持ちが彼には痛いほど分かっていたのかもしれない。そしてこの頃から、彼はあまり家に帰らなくなっていった。
現在二十二歳になる紫苑は、地元の元不良仲間たちと組んでレース活動をしながらバーテン業で食いつないでいた。クールなルックスと、笑うと印象が別人のように変わる不思議な魅力で女性を惹きつけ、女には苦労した事は無いようだ。