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阿佐まゆこ
阿佐まゆこ
novelistID. 46453
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冬至

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五年前の冬だった。ある夜、当時住んでいた街で、すれ違った女の人が言っていた。寒いからホットワインが飲みたいなと。綺麗な人だった。
 そこは、東京二十三区の端で、東京都の端でもあった。最初にその街で部屋さがしを始めた時に、物件によって都市ガスとプロパンガスが混在しているということが印象に残った。それまでに引越しは何度かしたけれど、ガスなんて気に留めたことも無かった。そして、大した違いなんて無いと思いプロパンの物件にした。間取り重視というやつだ。結果冬のガス代がとても高くて、その時こそ本当に驚いたのだったけど。
 私が借りたのは、あと五百メートルで埼玉県という場所に建つ三階建のマンションだった。車通りの多い街道のすぐそばということもあって、常に消防車や救急車のサイレンが鳴り響いていた。時には、二つ隣の市にある自衛隊の駐屯地から来る装甲車が何台も通り抜けてゆくこともあり、そんな時には最後の一台が通り過ぎるまで見ることにしていた。私は人に言わせれば、暇で孤独らしい。

 寒いからホットワインが飲みたいな。そう言った女の人は、ベージュのダウンコートを着ていた。ダウン。もさもさの筒型、いもむしの着ぐるみみたいなものではなくてそれは、華奢な身体を包み込む形の良いものだった。
 五年前の冬、どうにも過食が止まらずに困っていた。身体に悪い油を注ぎ続けているよなぁなんて思うのだけど、例えば、紙の袋に入れてもらうと、べったりと油が付くようなものばかりを食べていた。心身ともに、どうにもこうにも濁った感じを拭えなかった。
 その日の私の服装。いもむしの着ぐるみみたいな、陰鬱な苔色のダウンジャケット。暖簾のような幅の広いくたくたのデニム。ほとんどバケツと同じ太さのブーツ。その年、秋頃から急激に太りはじめた私には、まともに着られる服がほとんど無かった。美容室に行くのも嫌になり、髪は自分で切っていた。百円均一の店で買ったはさみで、ざくざくと切っていた。私の職場は服装が自由だから、会社へ行く時もそんな格好だった。この頃の私の変化について、たった二人の同期は見て見ぬふりをしてくれた。五歳年上の女性は妙に優しくなった。社長は嬉しそうにデブ、と言った。秋採用で入社してきた若い男はあからさまに私だけを避けた。

 昔むかし、根府川という男がいた。十年前の冬、御茶ノ水の路上で私に声を掛けてきた。自分はこの近所にある医大の学生で、怪しいものではないから少し、お茶でも。と言った。私は驚いて彼を見上げた。根府川はだいぶ背の高い男だったので、背の低い私はふりあおがなければ彼の顔を見ることができなかった。根府川は気弱そうな、細い目をして私を見下ろしていた。私は動揺していた。どういう理由であれ、私に声を掛ける男が居るとは思いも寄らなかったので。そしてその後、どんな会話をしたのだったかは忘れてしまったけれど、すぐに一緒に歩き始めていた、ということは覚えている。
 結局根府川とは、それから五年間一緒だった。と書くと、私と彼がまるで付き合っていたかのように思われるかもしれない。でも、実際は違った。五年間、根府川と私は時々会って一緒に過ごした。一年に一日なんてこともあった。日頃から連絡を取り合っていたわけではない。しかし、もう会わないだろうと思うと連絡が来る。会っても何をするわけでもなく、初めて会った時のようにただ、街を歩いた。主に根府川の地元の月島界隈から銀座まで。そうして日が暮れると、次に会う約束をすることもなく、じゃあ、といって別れる。そんなことを繰り返しているうちに五年経ってしまっていた。   
 そんな状態では一緒に居たなんて言ってはいけない、と言われそうなものだけれど。もともと人付き合いのあまり無い私には、それでも一緒に居た、ということになるのだ。そして五年前の秋。根府川は私を呼び出した。十月に入ったばかりで、まだまだ暑さの残る日だった。
「結婚することになった」
その日私達は、隅田川の川縁を散歩していたのだった。日が暮れてやや冷たい風が吹き始め、もうそろそろ帰ろうかというときに、突然根府川が言った。私はその日の帰り際根府川に、とうとう「次はいつ会えるの」と言おうと思っていたのだ。しかし根府川がそんなことを言うので、私はその言葉を飲み込むしか無かった。
「誰と」
と私は言った。なんとか言葉を繋いだという感じだった。
私にとって聞き覚えのある名を、根府川は言った。しかし私は、なぜか知らないふりをした。なぜか、なんて言い方は良くない。自己防衛のために知らないふりをしたというのが正しい。根府川はその女の写真を私に見せた。やはり私の良く知った顔だった。同じサークルに所属していた、私と一番仲の良かった人だ。私は時々根府川の話を彼女にしていたことがある。だからといって今更どうということもないのだけれど。
「妊娠してるんだよ、彼女」
と根府川は言った。
「俺の子だよ」
と根府川は言った。
祝ってくれるよね、と根府川は言い、招待状送るから後で住所教えて、と言った。私は架空の住所を教えた。国分寺市音威子府村、みたいなありえない住所を打って、メールを送ったのだった。
「そういえば」
別れ際に私は、どうしても聞かなければと思い尋ねた。
「あの時なぜ私に声を掛けたの」
「あの時って」
と根府川は言った。
「五年前の冬、御茶ノ水で。」
うーん、と根府川はしばらく黙った後に一言。
「忘れた。」
だいたい御茶ノ水って何の事、と小声で呟いた。それで、最後だった。その日以来、私は根府川に会っていない、根府川の妻になる人にも会っていない。

 もちろん、国分寺市音威子府村に招待状が届くことは無かった。その時、私はもう二度と根府川には会わないとかなんとか、かたくなになっていたわけではない。しかし「忘れた」の一言で、何かが所謂ぷつりと切れるという状態に、私は落ちていったのだ。正直に言うと私は、私と根府川との間に、根府川と彼女との間に起こったような出来事を期待していた。あの五年間、私は根府川に会うことを自分にとっての拠り所にしていた。私はただ待っていた。しかし根府川は当然、待たせてもいなかった。
 その日の夜からだったのか、次の日からだったのかは忘れた。とにかくその、困った過食が始まったのは。日毎夜毎テーブルいっぱいに積み上げて、平らげるという繰り返しが始まった。食費ばかりが膨らんで、あとは家賃と光熱費諸々を支払うと、後はほとんど残らないというありさまであった。そして私はどんどん肥ってゆき、身なりに構わなくなった。皮下脂肪が増えるとその分、私は私自身の中にひきこもり、世界というか世間はどんどん私から遠ざかるように感じた。私の数少ない友人は心配して、医者へ行くように薦めた。良さそうな病院のサイトを印刷して、ここへ行けと持ってきてくれたりもした。しかし私は行かなかった。
作品名:冬至 作家名:阿佐まゆこ