鬼蜘蛛女郎
弐 霧の中の家
女の言う通り、彼女の家は、そこからそう遠くない場所にあった。
山道を下って行き、比較的平らな道になってきた辺りに、ぽつんと木造家屋が立っていて、そこが彼女の家なのだという。
周囲にあるのは、木々ばかり。この様な山中じゃあ、生活にも苦労するのじゃないかと陽助は訊ねたが、女は「いえいえ、こらこれで、静かでええものなんよ」と笑って、首を横に振るうのだった。
「さっ、ここがうちの家どす。遠慮なく、くつろいでくださいな」
女に招かれるままに、家の中に足を踏み入れると、玄関から見渡せる家の中は、綺麗に整理されていた。上り框から家の中へ上がると、囲炉裏のある場所に出て、そこにある襖が、それぞれの部屋への仕切りになっている様だった。
「今、火ぃ起こすさかい、待っててな」
女に促されるままに、囲炉裏の傍に腰かけると、彼女は手慣れた仕草で、炉に火を起こしてくれた。
「貴女、一人暮らしなのですか?」
ふと気になって、訊ねると女はぎこちない反応を返して来る。
「ま……まぁ、そうやね。母はもう、こっちの世にはおらんし、父親の顔も知らん……一人暮らしみたいな、もんやねぇ……」
口元だけ覗く、彼女の表情に悲しみの影を見て、陽助はこれ以上の詮索を止めた。
「すまない。要らぬ詮索をしてしまいましたね……」
申し訳ない気持ちを感じて、陽助が謝罪を口にすると、女は黙って首を横に振るった。
「ええんどすよ。そないに、気にせんといておくれやす。うちも、そないに気にしとらんさかい」
女の言葉を聞いていて、陽助は何とも言えない気持ちがこみ上げて来るのを感じた。
他人の気遣いを出来る、何と良く出来た女子なのだろう。今まで、様々な村を渡り歩いて、性格の良く出来た娘にもたくさん出会ったが、彼女は、そのどれとも似つかぬ、独特な雰囲気を発している。
まだ、出会ってさして時間も経っていないのに、陽助は自分がこの女に惹かれ始めているのを感じていた。
自分でも、どうしてこんな風な気持ちになるのか分からなかった。女が炉に薪をくべるのを眺めていると、何とも言えない気持ちになってくる。口元から上の表情こそ見えないものの、手慣れた仕草で事を成し、その後に少し姿勢を崩しているその様が、何とも艶やかで、それを見ていると、頭が蕩けた様になるのを、陽助は感じていた。
「旦那はん」
不意に呼びかけられて、陽助は思わず、びくっとした。
「なんですか?」
内心の動揺を悟られぬ様、努めて落ち着いた口調で返すと、女は答えた。
「そろそろ、お夕食の支度にしましょうか?材料もそないにないし、大した物も作れませんが」
女に言われて、陽助は自分が空腹だという事に気付いた。思えば、山の途中で最後の握り飯を食ってから、もう何も食べていない。
「それは、ありがたい事です。是非とも、お願いします」
陽助は彼女の気遣いに感謝した。
彼女の作ってくれた汁物料理は、質素だが、とても味わい深い代物だった。
旨そうな匂いを漂わせる其れを、まだ湯気の立つ内に、かきこんで行く。其れを見て、女は嬉しそうに、口元を緩めた。
彼女自身も、食事をしながら、二人は様々な会話を交わした。
彼女は、自分の名前が紗江だということと、縫い物の仕事で生計を立てているのだという事を話し、また陽助も自分の名前と、弦楽師としての生き様を語って聞かせた。
紗江は陽助の話を楽しそうに聞いてくれたし、陽助もまた、彼女の話を聞いていると心が穏やかになっていくのを感じていた。
ただ、一つだけどうしても気になって仕方のない事がある。
其れは、紗江の被っている笠についての事だ。表情の隠れる、布付きの笠を、彼女は今も脱がずに被っている。
もう、家の中に入っているのだから、脱いでしまっても良いはずなのに、一体どうして……。
もしや、自分に笠の下の素顔を見せたくない理由でもあるのだろうか。
紗江と言葉を交わしながらも、陽助の意識はいつしか彼女の被る笠へと向いていた。
どうして、笠を脱がぬのか。その理由を問いたい。しかし、陽助は気になりながらも、その一歩を踏み出せずにいた。
そんな陽助に視線に気づいたのだろうか。
「どうか、しましたか?」
食事の椀を胸の前まで持っていきながら、紗江は首を傾げてみせる。
「ああ……そのですね」
陽助は、言葉に詰まりながらも、これを機会と考え、自らの疑問を口にした。
「貴女は、どうしてその傘をいつまでも被っているのかと、ふと気になってしまいまして……」
陽助が口にした途端、椀を持つ紗江の手がピクリと震えた。何か、苦い物でも堪える様に、彼女は唇を噛みしめる。
何か、触れてはいけない物に触れてしまった様な気がして、陽助はハッと口を閉じた。
いままで、和やかに過ぎていた団欒の一時が、居心地の悪い静寂へと形を変えて、陽助の心を苛む。
今に、紗江が激昂して椀を床にたたきつけるか、それとも逆に哀しみを堪えられずに泣き出してしまうのじゃないかと、陽助は気が気でなかったが、しかし紗江は陽助のそんな心配を余所に、口元に弱々しい笑みを浮かべながら、口にした。
「そないにこの笠が気になってますか……」
彼女の、呟きとも思える小さな言葉に、陽助は肯定することも否定することも出来ずにいた。
彼女の様子を見る限り、やはり聞いてほしくない理由があったのだ。気の毒な気がしたが、しかしそれでいてその理由が気になるのも事実であった。
しばらく、迷う様に沈黙していた紗江だが、やがて観念した様に、口を開いた。
「しゃーない……。旦那はん、良い人やし特別におせてあげます」
紗江の次の言葉を待ちながら、陽助は固唾を静かに呑み込んだ。
囲炉裏の炎が、パチパチと音を立てる。
どこか、憂いを帯びた仕草でその炎を見つめながら、紗江は言った。
「実を言うと、そないに大した理由やないんどす。ただ……恥ずしさかい、言いたかへんやけで……」
紗江は、そこで言葉を探す様に、少し沈黙した。
陽助は、ただ燃える炎の音を聞きながら、彼女の言葉の続きを待つ。
やがて、紗江は探していた物を見つけた様に、口を開いた。
「下手に着飾ってもしゃーないさかい……正直に言いますわ。うちん顔には、いかいな(大きな)デキモンが出来とるんよ……」
そこまで言い終えると、紗江は口を噤んだ。
何か、痛みを堪える様に、しばしうつむいて沈黙してから、彼女は顔を上げた。
「……やから、うちは人前で笠外さへんのやけど……見たいどすか?」
流石にもう、いたたまれない気持ちになって、陽助は強く首を振るった。
「いいえ、結構です。その様な事情がお在りとは……さぞかし、辛いことでしょう。失礼な事をお聞きしましたこと、お詫び申し上げます……」
陽助がそう言って、頭を垂れると、何故だか紗江はくすりと笑った。
不思議に思って、陽助が顔を上げると、紗江は嬉しそうに口元を綻ばせている。
「旦那はん……ほんまに優し人やね。ほとんどの人は、うちの顔笑いモンにしはるのに」