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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 ここで女官長の声が一段と潜められた。
「そなたが入宮するはるか昔の出来事ではあるが、そなたも孔淑媛の話は知っておろう。私はもう二度と、後宮であのような悲劇は繰り返したくない。また後宮を束ねる者として、大妃さまと国王殿下母子の御仲がこれ以上、悪化するのを見過ごすわけにもゆかない。その原因たるそなたをこのまま後宮にいさせるわけにはゆかないのだ。酷いことを言うようだが、ここは聞き分けて身を退いてくれ」
「私―」
 何か言おうとすると、涙がこぼれ落ちそうになる。明姫が何も言えないでいると、女官長は優しい声音で続けた。
「殿御をお慕いする女の気持ちに、身分は関係ない。私はそなたが欲得や計算づくで殿下に近づいたのではないと判っている。だが、後宮では、そのような見方をする者の方が少なかろう。私もかつてはこの上なく高貴なるお方を心から恋い慕い、その恩寵を何度かは賜った身だ。そなたがお若く凛々しい国王さまをお慕いする恋心はよく判る。女官長とはいえ、その上で愛し合っている若い人たちを引き離さなければならないのは辛いことだ」
「―」
 明姫は絶句し、唇を噛みしめた。堪え切れなかった涙がひと雫ポトリと床に落ちた。
「一つだけお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
「何なりと」
「提調尚宮さまは何故、心からお慕いした方とご一緒に歩く道を選ばれなかったのですか?」
 国王の寵を受けたのなら、側室として生きる道もあったはずだし、むしろ大抵の女はその人生を選んだだろう。女官長が先々代の国王に愛されたというのは事実だったのだ。
 女官長の丸い顔にゆったりとした笑みがひろがる。
「私の方からお願いして、お別れさせて頂いた。私は心からその方を愛していた。もちろん、その方の私へのお気持ちは本物であったと思うが、生憎とその方には既に何人もの女人がお仕えしていたのでな。私はあまたの女人とその方の愛をゆずり合うのは我慢できなかった。たとい貧しくとも、夫婦は一対であるべきもの、また、そのようにありたいと、私は願っていた。ゆえに、自分からその方のお側を去ったのだ。だがな、その方は私の我が儘を許してくださり、私は女としてお仕えはできなかったが、いつも近くでその方のために働くことができた。それは、私にとっては女として愛されるよりも嬉しく、生き甲斐のある人生であったと思う」
「立ち入ったことをお訊ねして、申し訳ありませんでした」
 明姫は頭を下げた。女官長は微笑んだ。
「何の、私のつまらない昔話が若いそなたの役に立てば何よりだ。後宮を去っても、達者で暮らすのだぞ」
 はい、と、明姫は頷き、もう一度深々と人生の、女としての大先輩に心から頭を下げた。

 その日の中に、明姫は宮殿を去った。伯母の崔尚宮に言えば引き止められるのは判っていたから、敢えて伯母には何も言わず内緒で後宮を出たのである。
 女官のお仕着せから地味なチマチョゴリに着替え、目立たないように頭からすっぽりと外套を被って門を出た。すべては女官長が準備を整え取りはからってくれた。
 いよいよ宮殿の門を出る際は、流石に涙が溢れた。六歳から十五歳までの長い年月を過ごし、生まれて初めての恋を知った場所でもあった。それまで起居していた部屋には、文机の上に伯母への手紙と傍らにはユンが贈ってくれた華やかなチマチョゴリを置いてきた。
 あれが自分の応えなのだとユンなら悟ってくれるだろう。高価なチマチョゴリは置いてきたけれど、町中で買って貰った灰簾石(タンザイナイト)のノリゲと簪はちゃんと数少ない手荷物の中に忍ばせていた。せめて彼のいないこれからの日々の中で、彼との幸せな想い出を忍ぶよすががなければ、あまりにも淋しすぎる。
 イ・ユンという人は本当に自分の見た幻影にすぎなかったのではと疑いたくもなってくるかもしれない。
 いや、自分がユンを忘れることはあり得ないだろう。彼と過ごした一瞬一瞬が今も明姫の宝物だ。こんなちっぽけな自分を好きだと言ってくれた彼の言葉が、大切な宝物を愛しむように優しく撫でてくれた手の温もりが、これから生きてゆく勇気を与え、背中をそっと押してくれるに違いない。
 宮殿の正門を出た明姫は、物陰に座ると、両手を組んで掲げ拝礼を行った。そのはるか彼方、大殿には国王の住まいがある。それは国王であるユンに対してではなく、十五歳の自分が全身全霊で愛した男への別れの挨拶のつもりだった。
  皆が幸せになれる国を作りたいと彼は言った。ユンなら、自分だけが私利私欲に耽ることなどなく、民草のことを真っ先に考える良い国王になるだろう。
―どうかこの国を遍く照らす聖君となってくださいませ。どこにいても、明姫はあなたさまのご健康とお幸せをお祈りしています。
 拝礼を繰り返す明姫の頬をいく筋もの涙がつたい落ちていった。
 

 月日は流れ、都漢陽に再び春がめぐってきた。宮殿を去った明姫は崔氏の屋敷に帰り、祖母クヒャンと二人でひっそりと暮らしていた。女二人だけの住まいは至って静かなものだ―と思っていたのに、相手が祖母では思いどおりにはゆかないのだと考えなかったのは自分が甘すぎた。 
 祖母との同居生活は実に賑やかで、実際、ユンとの哀しい恋の想い出に浸っている余裕はなかった。何と祖母は副業(アルバイト)に占い師紛いのことをやっているのだ。これは明姫も崔氏の屋敷で暮らすようになって、初めて知った。
 けして立派とはいえない屋敷の門前には、毎日、占いの相談にくる人が列をなして並んでいる。クヒャンの占いは結構当たると評判らしい。
 そのお陰で祖母と孫娘はなかなか良い暮らしができるのだから文句は言えないけれど、屋敷内は一日中、訪問客でごった返している。その中には下級両班の奥方や裕福な商家の息子もいて、時折邸内で見かける美しい孫娘に予期せぬ縁談が舞い込んでくることもあったが、明姫はそんな話はすべて丁重に断っていた。
 そんなある日のこと、崔家を訪れた一人の青年がいた。もちろん占って貰おうと門前に居並んでいた客の一人であったのだが、いざその若者の順番が来て室内に通された途端、クヒャンは絶句した。
「あなたは―鳳凰の君じゃないの」
 彼女の眼の前では、ユンが相変わらず涼しげな微笑を浮かべている。どうやら一年経っても、この青年の美貌はいささかも変わっていないらしい。
 今日はこの季節に萌える若葉を彷彿とさせる品の良い緑のパジチョゴリだ。まったく憎らしいほど様になっている。
「お久しぶりです、お祖母さま」
 ユンは初めてきたときと同様に、恭しく拝礼を行った。
 明姫は後宮を辞した本当の理由を祖母に告げていない。女官仕事もそろそろ辞める潮時だと思ったから―と適当な言い訳をしていた。そういうところを深く詮索しないのもまた、クヒャンの良いところである。
 クヒャンは小さく肩を竦めた。
「まあ、いつかは来るだろうとは思っていたけれど、随分と時間がかかったのね。愚図愚図していると、うちの可愛い孫娘はよその男に攫われてしまいますよ。あれで、結構、縁談の話が来ているのです」
 ユンは微笑んだ。
「明姫は誰にも渡しません。あの娘はとうに売約済みの札がついていますからね」
「売約済み?」