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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 だから、蒼色の官服を纏った彼と朝廷で出逢ったときは、かなり愕いた。本当に官吏だったのだと漸く信じられる気になった。ところが、ユンは中級官吏ではなく、この国で唯一無二、最も尊い存在だとされる朝鮮国王であった。
 今でも、まるで夢を見ているような気分だ。明姫が好んでよく読む婦女子向けの小説(読み物)などには、よくそういったどんでん返しが仕組まれた話が描かれている。しかし、小説でもあるまいに、現実にこんなことがあり得るとは信じがたい話だ。
 小説は過激な性的描写や挿絵が人々の風紀を乱すとして、公には禁止されている。が、人々はこぞって買い求め、陰でこっそりと読みふけっていた。この後宮でも、女官たちの間ではひそかに小説が流行っている。人気のある小説は順番待ちではないと読めない有様だ。
 まあ、ユン―国王その人がどうやらひそかに小説を読んでいるようだから、幾ら朝廷が厳しく詮議して取り締まっても、小説を読む人がいなくなることはないだろう。
 難しげな書物はできればご免蒙りたいが、こういった気楽に楽しめる物語ならば大歓迎である。
 それにしても、小説を禁止しているはずの当の国王がそれを読んでいるとは。明姫は初めて逢ったときの彼を思い出して、思わず頬を緩めた。どこから見ても、大切に育てられた坊っちゃん然としたユンが大真面目に武官だと自己紹介したときは、笑い出したいほど愕いたが。
 まるで武芸とは縁がなさそうな彼と武官という肩書きは誰が見ても、結びつかなかったろう。
 彼と出逢ったあの日から、まだひと月も経っていない。なのに、今はあの出来事がもう何年も前のことのように懐かしく思えた。
 短い間だったけれど、ユンとは色んな想い出を作ることができた。彼と共有した時間は明姫にとっては生涯の宝となるに違いない。その想い出たちの中では、彼は国王などではなく、ただの集賢殿の学者にすぎなかった。
 そこで、明姫は初めて、自分がユンとの恋を既に過去形として認識していることに気づいた。もう、彼との恋は自分の中でも本当に終わったのかもしれない。
 未練がましくも、また涙が溢れそうになり、明姫は慌てて瞬きで涙を散らした。
 その時、扉の向こうから遠慮がちに声がかけられた。急いで開けると、見慣れた朋輩の顔がある。明姫よりは二つ年上だが、入宮の時期もほぼ同じで見習い時代から仲の良かった娘だ。あまり社交家でない明姫にとっては、数少ない親友と呼んで良い。
「提調尚宮さま(チェジョサングンマーマ)がお呼びよ」
 明姫は眼を瞠った。提調尚宮は後宮女官長、つまり後宮の取締役である。後宮の女たち、つまり内命婦(ネミョンプ)を統括するのは後宮の長である王妃だが、それは後宮内のことを決める決定権を持つというだけのもので、実務面での運営を行っているのは提調尚宮である。
 後宮で最も高位の提調尚宮がいきなり下っ端女官に用があるといえば、大方は何かの叱責を受けるとしか考えられない。咄嗟に思ったのは中殿に差し上げる牡丹の花を落としてしまった出来事への叱責ではないかということだった。
 が、あの一件については国王ユンが自ら大妃と直談判に及んでまで?咎めなし?と決まっている。国王が決定した事項は何人たりとも覆すことは許されないのだ。
 他に考え得る失敗というのは特に思い当たらず、一体何事かと内心は薄氷を踏む想いで女官長の部屋に行った。
「提調尚宮さま。お呼びでしょうか」
 外から声をかけると、?入りなさい?とすぐに返事があった。扉を静かに開け中に入ると、明姫は深々と腰を折る。
 提調尚宮は後宮生活四十年の大ベテランであり、先輩だ。キャリアの尚宮となった人の中では異例の?お手つき?尚宮だとひそかに噂されている。後宮においての尚宮という呼称には実は、ふたとおりある。
 まず、崔尚宮や大妃殿の朴尚宮のような職歴を積み上げてきた、たたき上げの尚宮である。これはキャリア女官といえる。若い女官たちを監督・統率し、女官長を補助して後宮の実務や運営が滞りなく運ぶように働く。
 後宮には王や王妃の食事を担当する水刺房(スラッカン)、洗濯を担当する洗濯房、後宮内のすべての衣服の仕立て、補修を担当する繍房(スバン)というように、担当部署が細かく分かれている。大殿と呼ばれる王宮殿、中宮殿と呼ばれる王妃殿、また大妃殿にもそれぞれ尚宮がいるが、細かく分けられた部署にもそれぞれ専任の尚宮がいた。
 これらの尚宮もむろん、キャリアである。
 その一方、?承恩尚宮?、?特別尚宮?と呼ばれる尚宮が存在した。この呼称は実のところ、王の寵愛を受けた女官に対しての敬称であり、一般の尚宮とはまったく違う。尚宮と呼ばれていても、王の側室扱いを受ける。独立した住まいを賜り、尚宮のお仕着せではなく、きらびやかなチマチョゴリの着用も許される。
 もちろん、実際に仕事をすることはない。このように、キャリアの尚宮と王の寵愛を受ける尚宮とはまったく違う
 ところが、今の女官長は女官時代に王の寵愛を受けたことがあるという専らの噂だ。もっとも、その出来事は三代前の国王の御世のことであるらしい。当時のことを知る者は後宮にはいないから、それが真実なのかどうかは定かではない。三代前の王は先々代王の兄であり、在位わずか二年で世を去った薄幸な人である。
 常識的に考えれば、お手つきの尚宮がキャリア尚宮に転向することはない。しかしながら、女官長のどこか掴みどころのない不思議な魅力は、確かにその昔、そのようなロマンスもあったのではと思わせる。崔尚宮のように厳しいわけでもなく、いつもおっとりと微笑んでいて、声を荒げて怒ることもない。
 けして美人とはいえないが、女性らしい魅力を備えた人なのだ。その分、滅多に怒らない女官長を怒らせたら、取り返しが付かない―とまで囁かれている。
 一礼した明姫はおずおずと女官長の前に座った。一体、何の失敗で叱責を受けるのだろうかと気が気ではない。
 座椅子に座っていた女官長は明姫を認めると、微笑んだ。
「そのように固くならずともよろしい。別にそなたを咎めようと思っているわけではない」
 最初にそう言われたので、随分と気が軽くなった。それがあからさまに顔に出たのか、女官長はにっこりと笑った。
「そなたが金明姫か?」
「はい」
 明姫は畏まって応えた。むろん、後宮内でも最高位の尚宮と直接言葉を交わすのは初めてである。
 女官長が小さな息を吐いた。ふくよかな顔から笑顔が消えている。これはどうやら、あまり良い話ではないらしいと再び身体中に緊張が漲った。
「今日はそなたに申し聞かせたいことがあって呼んだ」
 女官長はまた溜息をつき、どうしても片付けたくない仕事を急いで済ませるように早口で言った。
「国王さまとそなたの拘わりは既に私も存じておる」
「提調尚宮さま」
 明姫が言いかけるのに、女官長は首を振った。
「まあ、人の話は最後まで黙って聞け」
「―申し訳ありません」
 明姫はうなだれた。
 そんな明姫を見つめる女官長の眼にはどこか憐憫の情が浮かんでいるが、明姫には判らない。
「こたびのことで、大妃さまは烈火のごとくお怒りだ。あのとおり、ご気性の烈しいお方ゆえ、正直、そなたの身に危険が及ばぬとも限らぬ」