Parasite Resort 第一章
act03
「本当にもう大丈夫なの?」
珈琲館にて、急に倒れ伏した旦。店員が救急車を呼ぼうとした電話を掛けた瞬間に、意識を取り戻し、「アザゼルって何?」と玲子に問うた。玲子は、目の前の異常事態にゾッとして、店員に「早く救急車を呼んで」と連呼したのだが、自分を取り巻く状況をある程度把握した旦が、それを必死に押しとどようとした。可哀想なのはアルバイトらしき男性店員である。玲子と旦の板挟みとなり、また119の電話向こう、消防署のオペレーターにも挟まれて、右往左往しながら、店内を目まぐるしく行き来していた。本当に彼は可哀想であった。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「大丈夫だって……ほら」
場所は大学の構内。旦は急に立ち止まり、その場で屈伸運動を始めた。旦の体が沈み込む度、膝からぽきぽきと乾いた音が鳴る。その音は、日頃の運動不足の賜物なのであろう。総合的に見て、玲子は、心配の度合いを強めざるを得ず、旦のために何かしてやりたいと思ったのだが、差し当たって、旦の屈伸を止めさせるために「もう分かったから」と声を掛けることが精一杯であった。旦は、(俺、まだまだイケるぜ)的なイマイチ意味の分からない表情を浮かべつつも、玲子に促され、再び歩き始める。
「今日のゼミ終わったら、何日か休んだほうがいいんじゃないの?」
「大丈夫」
「一回病院で精密検査受けてみたら」
「大丈夫っ!ホラ」
言うが早いか旦は、軽やかなスキップぴょんぴょんで、呆気にとられている玲子を残して、研究室に跳ねて行った。
「……大丈夫じゃないみたいね……色んな意味で」
ゆっくりと自分のペースで研究室に向かう玲子、その足取りがカツカツと小気味よい音を足下にて響かせるのを聞きながら、しばらく歩いたのだが、ふと足を止め、ふと呟いた。
「アザゼルって何?」
*****
ゼミを終え、学食にて昼食を取る二人。フォークを様々な角度に傾け回転させながら、Bランチのパスタを器用に口に運ぶ玲子、さらに器用な事には、テーブルにノートパソコンを広げて、何やら調べ物をしているようだ。お行儀が悪いと言ってしまえばそれまでなのだが、片手でフォークを魔術師のように操り、またもう一方の手で素早くキーをタイプする玲子を見て、旦は、何故か「仕事の出来る女」といった的はずれなワードを連想させていた。
「アザゼル……旧約聖書に出てくる堕天使の名前ね」
「へー」
「へーって?知らなかったの?」
「ああ」
「じゃあどっからアザゼルなんて単語が出てきたのよ」
「……わかんないけど……強いていうならば頭の中からかな……無意識のどっか……ひょっとしたら忘れているだけで、昔聞いたことがあるのかも知れない……アザゼル……堕天使、どんな奴なのそいつ」
「wikiの内容だけど、主要なとこだけ抜き出して読み上げるわね。アザゼルという名前は、ヘブライ語の『神の如き強者』に由来し、『神が力を与えるもの』の意味である。堕天使となった経緯は、人間に仕えよという神の命に背き、『天使が人間などに屈すべきにあらず』と頭を下げなかった事が原因、これが神の命に背く行為と見做され天界を追放された。またアザゼルは、「見張りの者たち(グリゴリ)」と呼ばれる存在の一人であって、人間を監視する役割であったという伝説もあるようね」
納豆蕎麦を何度も何度も箸から滑り落としながら、玲子の解説を聞いていた旦であったが、なんとか一纏まりの蕎麦を手繰り寄せ、ズルルと一啜り、重ねて問うた。
「で、それが俺と何の関係があるの?」
「はぁ?知らないわよそんな事。って、それ、こっちが聞きたいわよ」
ずるるる
そもそも箸の持ち方からしておかしいのである。玲子は旦の言動、挙措動作etcに苛立ちを隠せなくなっていた。
「とにかくクロ、一回病院に行っとこ。朝の事もあるし」
玲子は一見冷静沈着なタイプ見えるが、実は熱情型の女である。激情型と言っても良い。言い出したら聞かない性格だし、思い立ったらすぐの性格でもある。ノートパソコンをバッグに収めると、旦の腕をむんずと掴んで無理矢理に立ち上がらせようとする。旦の手に握られた箸から蕎麦がツルルと落ちて、テーブルに幾何学模様を描いた。
「ちょっと玲子、落ち着けよ」
「落ち着いてられないよ。クロ、朝からずっと変なんだもん。心配でしょうがないよ!」
(静まれ人間の女よ)
玲子の頭に言葉が響いた。それは女の声で聞こえてきた。旦を見ると、その瞳は、発光ダイオードのように赤く光っている。
「え……あ……」
一瞬、玲子の意識が飛んだ。
「ごめん……ちょっと冷静になる」
玲子は何かに取り憑かれたかのように、自分の意思を引っ込めて、急に大人しくなった。旦は、そんな玲子を不思議そうに見つめ。
「分かったよ玲子。病院行ってくるから。教授に言っといて」
「……うん」
*****
「何かがおかしい」
それが何かは分からないが、とにかく何かがおかしい。旦はそう思いながら、玲子との約束通りに病院に向かうでもなく、ブラブラと駅前の商店街を歩いていた。
「昨日の夢……あれのせいかな?」
赤い女が、体内に侵入してくるというエキセントリックな夢を見てから、旦は、自分の体や意思が、何か自分以外のモノに乗っ取られてしまったのでは無いかという妄想に苛まれていた。それは打ち消そうとすればするほど鮮明になり、脳の頭蓋の隔壁の中で幾度と無くリフレインするのだった。
(俺は……何者かに乗っ取られていしまったのではないだろうか?)
そんなフレーズをリフレインさせていては、どちらにせよ自我の主体性はいずれゲシュタルト的に崩壊してしまう事、間違いないであろう。
行く宛もなく歩いていたせいもあると思う。気がつけば、人気の無い路地裏の突き当りで、旦は佇んでいた。
「なんでこんなとこ来ちゃったんだろう」
引き返そうと振り向くと。
そこに
赤い女が立っていた。
作品名:Parasite Resort 第一章 作家名:或虎