深夜2時の居場所
でも、〝ただいま〟と返してみたくなったわたしの気持ちに、歯止めはきかなかった。
バクバクと暴れる心臓をどうにかこうにか押さえつけながら、冷たいコーラをレジに持って行く。春本さんは参考書にふせんを貼っていた。
カウンターにコーラを置いてリュックサックから財布を取り出そうとすると、
「待った」
春本さんが突然手の平を突き出してきたのでわたしはたじろいだ。
「今日はおごる」
「え」
それ以上声が出ない。
今日はおごる?
なんで?
最初にコーラをくれたときみたいな気まぐれで?
春本さんの表情をうかがう。べつだん変わったところはない。春本さんが何かをおごってくれたのは最初の一回だけだ。一体どんな心境の変化があったというのだろう。
期待して、いいのだろうか。
「あ、」りがとうございます! と続けようとして、
「せんべつってやつ」春本さんの声が一歩先に飛び出してきた。それがどういう意味の言葉だったか一瞬思い出せず、わたしは固まる。
「って言うには、ちょっと立場が逆だけど」
せんべつ。……それって、餞別、ってこと?
「今日で最後だから。ここに立つの」
ピ、という電子音。コーラのラベルに印刷されたバーコードを読み取る音。
春本さんは淡々と自分の財布を取り出し、レジ打ちを進めていく。
有線から垂れ流されていた音楽が、急に大きくなったような気がした。音の波が耳に流れ込み、鼓膜を圧迫する。
頭の中が真っ白だった。
長い夢を見ていたような気がした。
あまりにも心地の良い夢だったから、それが夢だなんて気付かなくて。
急に引き戻された現実に、押し潰されてしまいそうだった。
外灯の少ない暗い夜道を、自転車でふらふらと走っていた。
じゃあ、わたしの家出も今日が最後になりそうです。
無理した笑顔を作ってでもそんなふうに言えたら、少しは女の子らしかっただろうか。
でもわたしときたら、ショックのあまり俯いて物も言えなくなり、春本さんを困らせてしまった。差し出されたコーラ入りのビニール袋を受け取れなくて、すると春本さんは「じゃあこれもサービス」とからあげも一緒に袋に入れてくれて、それでもウジウジしているわたしを見兼ねたのか最終的にはさっきまで読んでいた参考書までビニール袋に突っ込んで、半ば無理やりわたしの手に握らせた。
〝またね〟とも〝さよなら〟とも言えず、わたしはコンビニを飛び出していた。
家に帰ったのは三時過ぎだった。わりと大きな音を立てて玄関の扉を閉めたけど、両親は起き出してこなかった。
デスクライトだけ灯した暗い部屋で、からあげとコーラをいっぺんに平らげる。味なんてこれっぽっちも感じられなかった。
これでビニール袋の中に残ったのは、ふせんの貼られた参考書のみ。
なにそれ、って思った。
最後に残ったものが、春本さんとの出会いが夢じゃなかったんだと思えるたったひとつの物が、参考書って。
脱力して、机に突っ伏す。
何とはなしに、顔の横でパラパラと参考書のページをめくった。
(……ん?)
そこでわたしはあることに気が付いた。
むくりと体を起こし、参考書の内容に何度も何度も目を通す。
春本さんは大学生だ。あのコンビニのアルバイトは『高校生不可』だし、何より本人がそうだと言っていたのだ。
でも、ここにある参考書はどう見ても高校生向けだ。
瞬きも忘れて、ふせんのページを開いてみる。
二枚の紙が挟まっていた。
一つは、四つ折りにされた、はがきのような硬さの紙。開いてみると、K大学のロゴが入ったパンフレットだった。
もう一方はノートの切れ端。破り取ったもののようで、端のほうが不規則にぎざぎざしている。
その真ん中辺りに、四角い文字が書き込まれていた。
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また会えたら、きみの名前を教えてください
春本裕一
両目をごしごしとこする。
パンフレットをじっくりと読み直す。
今のわたしの学力じゃ合格には届かないだろう。
毎晩この部屋で勉強するくらいじゃないとダメだろう。
進学先について、母とも話し合わなきゃならないだろう……。
(…………ずるい……)
火照った頬を机にぺたりとくっつけた。
夜が更けていく。
わたしの家出が、終わっていく。