人生最期の言葉
「うん、そうだよな」
「今の私たちでは、この子を幸せにできないよ」
「うん」
「明日、病院に行ってくる。本当にごめんね」
「わかった……俺の方こそ、無責任でごめん」
※ ※ ※
一時限目は国文学史の授業だった。大きな教室の一番後ろの席に着く。教授の声は微かに聞こえているが、僕の頭の中には入ってこない。頭の中は彼女との間に起こってしまったことでいっぱいだった。
授業は続く。教授の声も聞こえている。でも、僕は一番後ろのドアから教室の外に出た。
外はきりりと引き締まった、冷たい空気が流れていた。屋上から見る東京の街は高いビルや、低いビルや、建設中の電波塔や、小さなぼろいアパートや、とにかくたくさんの種類の建物とわずかな緑と道路と公園といろんなものでぎっしりと敷き詰められている。
あのビルにもあの公園にもあの道路にもあのアパートにもあの電波塔にも命が動いている。
外にはあらゆる所に命がある。その命はすべて母親の体の中から出てきたものだ。
……こんなことを真剣に考えたのは初めてのことだった。今、僕と彼女は一つの命の行方を握っている。僕の言葉で彼女の行動で僕と彼女の決断でその命の行く先が決まってしまう。
冷たい風が顔に当たる。身体にあたる。寒さを感じる。それは僕が外にいるから、生きているから。
本当にいいのだろうか――。
僕たちの決断は間違っていないのだろうか。
空の青さと、刺すような冷たい風に耐えられなくなり僕は建物の中に入った。
エレベータで二階に降りた。正面にのびる廊下を歩き、扉を開ける。話し声は一切聞こえない。紙がめくられる音、筆記用具が紙の上をすべって行く音。その静かな空間に入ると自分の心臓が鼓動している音も聞こえてくるような気がした。
特に読みたい本があるわけではなかったが、何も読まずにただじっと座っているわけにもいかないので、僕は当てもなく本棚を見て回った。
”谷崎潤一郎全集””坂口安吾全集””三島由紀夫全集”
国文学科の僕にとっては見慣れた本ばかりだ。その全集の中に一冊だけとても薄くて表紙にタイトルすらも書かれていない本が挟まっていた。
僕は思わずその本を手に取った。
『人生最期の言葉集』
本を開いてみると、多くの人の人生最期の言葉が一ページに一文ずつ
記されていた。
「今までありがとう」
「本当に楽しかった」
「幸せだったよ」
「ごめんね」
「コーヒーが飲みたい」
「もっと……」
「タバコが吸いたいなあ」
「もう一度、逢おうな」
「やっと、死ねる……」
「まだ……」
「死にたくない!!!」
そのほかにも多くの人の人生最期の言葉が記されていた。
病院で死にゆく人の最期の言葉。
自宅で家族に見守られながら死にゆく人の最期の言葉。
人生に絶望し、ビルの屋上でつぶやいた最期の言葉。
突然の事故に遭い車の中でうめいた最後の言葉。
誰もが想像するであろうありきたりな言葉が多かった。しかし、次のページにはかぎかっこのついていないこんな言葉が書かれていた。
この世に生まれたかった――
そうか……そうか……これも最期の言葉なんだ。文章にするとかぎかっこを付けることもできない、誰とも会話できずに母親の胎内でかき消されてしまった、声にならない最期の言葉なんだ。
そう、まだ生まれていないが命なんだ。命が宿ったんだ。それなのに僕らはそれを閉じ込めたまま消し去ろうとしてしまっている。
僕の目からとめどなく涙が流れてきた。間違っている。やはり僕らの決断は間違っている。
僕は駆け出して、その部屋を出た。建物から外に出た。バスに乗った。そして二つの命が存在している自分の部屋へと駆け込んだ。
息を切らせて、勢いよくドアを開けた僕をみて彼女は驚いている。
息を整える間もなく。僕は彼女に向かっていった。
「産んでくれ……必死に頑張ればきっと幸せになれる。お前のおなかの中には命が宿っているんだよ。その命は外に出て、空気を吸いたいはずなんだ。外の世界を感じたいはずなんだ。俺たちと、たくさんの人たちと話したいはずなんだ」
彼女は何も言わなかった。僕の目をじっと見つめている。彼女の目に涙がにじんでくる。一筋の涙がこぼれた時、彼女は携帯電話を手に取った。
「もしもし、先ほど明日で予約を取った柏田というものですけど、キャンセルしていただけますか……」
それだけ言うと、彼女はその携帯電話をテーブルの上に置いた。
「おなか減ったね。お昼、マックがいいな」
彼女は笑顔で言った。そして、もう一言。
「ハッピーセットにしようか、おもちゃ一緒に選ぼうね」
彼女のその一言はきっと僕だけにではなく、これから生まれてくる新しい命にも向けられたものだったのだろう――。
僕たちは部屋の扉を開けて、外に歩いていった。外はやはり冷たい風が吹いていた。でもそれを感じる僕たちの心には新しく宿った命の温もりが広がっていた。