何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】Ⅱ
明姫は空を見上げた。紫紺の空を飾る満月には雲一つかかってない。何が今宵の月のように翳らぬ前に、だ。
息をするように嘘をつくのは慣れてない?女を口説き慣れてない?
嘘もたいがいに言って欲しい。明姫は腹が立ったので、絹の刺繍靴で思いきりユンの向こうずねを蹴り飛ばしてやった。
「い、痛ッ」
ユンが脚を押さえて、涙眼になっている。
「何故、こんなことをする?」
「この女タラシ!」
「誰が女タラシだって?」
「あなたよ、あなた」
他に誰がいるっていうのよ。明姫はぷりぷりと怒りながら一人、先に立って歩く。
「まあ、そう怒るな、怒るな」
ユンがまだ痛むのか、脚を引きずりながら追いかけてくる。
「良い加減なことばかり言って、本当にもう!」
「私が良い加減なことを口にしたというのか?」
「そのとおりでしょ。さっき、身体がどうのこうのって」
流石にそれ以上は言えず、頬を赤らめる。
あれでは、まるで二人が既に男女の関係になっているような言い方ではないか。
「ああいう誤解をされるような言い方は止めて欲しいの」
「満更、嘘でもないぞ」
え、と、明姫が顔を上げた刹那、ユンの魅力的なあの笑顔とまともに遭遇した。
「膝枕をして貰った時、そなたの身体が物凄くやわらかいのに愕いた。女の身体は確かに男に比べてやわらかいものだが、そなたの膚は白磁のようにすべらかで、抱き心地もさぞ良かろうと―」
「知らない! 絶対にもう膝枕なんかしません」
明姫は真っ赤になって憤った。
「怒ったのか? 済まん、別に他意はないんだが」
ユンが慌てて追いかけてくる。
と、明姫の前に突如として二人組の男が立ち塞がった。
「可愛い娘さん、これからどこに行くの? おじさんたちと良いところに遊びに行かない?」
見れば、商人風の二人連れの男がニヤニヤしながら立っている。ともに三十代そこそこくらい、顔が紅く相当酔っているのだと判る。
「―」
酔っぱらっている男たちは眼が座っていて、かなりの迫力がある。
明姫が怯えたような瞳で後ずさると、二人組はずいと迫ってくる。そこにウォッホーンとわざとらしい咳払いが聞こえた。
ゆっくりとした足取りでユンがやってくる。
「失礼だが、私の許嫁者に何か用か?」
余裕で現れたユンは、どこから見ても上流両班の子息といった風体である。
「い、いや。旦那さまのお連れとは存じませず」
「失礼しました。なあ、行こうぜ」
二人は忽ち態度を変え、幾度も頭を下げながら逃げるように去っていった。
「何なの、あの男たち」
明姫はまだ小刻みに身体を震わせていた。
「ここは色町だからな。妓房には妓生もいれば呑みに来た酔客もいる。別段、不思議はないさ」
ふいに強い力で引き寄せられ、明姫は狼狽えた。
「なっ、何のつもり?」
「少し静かにしてくれ。早く帰りたいのなら、ここで余計なことに刻を費やしたくはないだろう?」
ユンはいかにも仲睦まじい恋人同士のように明姫の肩を抱き、ぴったりと寄り添って歩き始めた。
「こうしていれば、誰も私たちに構おうとはしない」
現に、ユンの男ぶりを見て近寄ってこようとした妓生たちも、傍らの明姫を見ると舌打ちして去ってゆく。
明姫はユンに肩を抱かれたまま、怖々と周囲を見回した。両脇には煌々と輝く灯りが軒からぶら下がって道を照らしている。
夜というのが嘘のように、ここは明るい。
「これが全部妓楼なの?」
「そうだ。ここは女と男が一夜の夢を売り買いする場所だからな」
「一夜の夢を?」
「ここでは夜毎、幾つもの恋が花開く。でも、すべてが紛い物だ。金をやりとりして、女は男に夢を見させてやる。男も最初から女の言葉に真はないと承知で夢を買う。そういう色恋もこの世にはあるということだ」
「ここで働く妓生たちは、皆、何を考えて生きているのかしら」
ユンが物問いたげに見つめてくる。明姫は沈んだ声音で言う。
「夢を売るって、それは結局、身体を売ることでしょう。もちろん、皆、ここに来たくて来たわけじゃないだろうし、妓生になりたかったわけでもないと思うけど」
九年前、自分だって妓楼に売られてくる可能性もあったのだ。火事で両親も何もかも失った。あの時、母方の祖父母に引き取られていなければ、女官にはならずに妓生になっていたかもしれない。
生きるために、自分の身体を切り売りする。それはどんなにかやるせなく辛いことだろう。しかも好きでもない男を相手に夜毎、身を任せなければならないなんて。まだ生娘にすぎない明姫にも何となくではあるが、想像ができた。
「女って哀しい生きものだわ。こんなことを言っては畏れ多いけれど、ここにいる妓生と国王殿下の後宮にいる私たちもたいして変わらないのよ」
「女官と妓生が同じだというのか?」
ユンが心外そうに眉をつりあげる。
「女官は一生、籠に閉じ込められた鳥のままなの。飛べない鳥、咲いても誰も見てくれない花。誰にも生涯嫁がず、花の盛りを愛でてくれる人もいないまま散ってゆく。私たち女官は表向きは国王さまのものということになっているから、誰とも恋愛はできないのよ。だから、誰もがいつかは国王殿下の眼に止まり、側室になって寵愛を頂きたいと願う」
「明姫も国王の側室になりたいのか?」
明姫はゆっくりと首を振った。
「私はそんなことを考えたことも夢見たこともないの。だって、側室といえば聞こえは良いけれど、結局はここにいる妓生たちと同じ立場よ。国王さまにとっての妻は王妃さまただ一人。側室はその他大勢の一人に過ぎないんだもの。それに、たくさんの女たちと一人の男をめぐって凌ぎを削るのなんて、到底耐えられない。良人の愛をたくさんの妻たちと分かち合うのも無理だわ、私には」
「そう、か。たくさんの女たちと一人の男の愛を分け合うのは無理か」
その瞬間、ユンの端正な面がすっと翳ったのを明姫が気づくはずもない。
「だが、明姫。これだけは忘れるな。男だって、皆が皆、大勢の女を侍らせて歓んでいるとは限らない。例えば私なら、ただ一人の女を見つけて、生涯、その女人だけを愛し抜き守りたいと思う。そんな男だっているんだぞ」
明姫が肩を竦めた。
「ユンが口にしても、あまり真実味がないわ」
「なっ」
唖然としている彼に、明姫が笑う。
「だって、見かけによらず、随分と女性経験があるようだし。妓房のことだって、よく知ってるわよね」
「そ、そんなことはないッ。断じて、ない。私は」
「来てるわよね。ここに」
「私も男だ! 妓房にだって来たことはあるさ」
開き直ったように言うユンがまた〝うっ〟と呻いた。またしても明姫に蹴りを入れられたのである。
「妓房で妓生遊びをしておきながら、ただ一人の女人を生涯愛し抜くですって? ちゃんちゃら、おかしいわ」
明姫は今度こそ、呻いているユンを置き去りにして色町を一人で歩いていった。
「あー。笑ったり怒ったり、よく表情の変わる娘だ」
ユンは半ば呆れたように言い、脚を撫でた。
「それにしても、痛いな、もう。見かけは可愛いのに、とんだじゃじゃ馬ではないか」
だが、そこも可愛い。ユンは他人が訊いたら惚気(のろけ)にしか思えないようなことを言い、慌てて明姫の後を追いかけた。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】Ⅱ 作家名:東 めぐみ