お菓子
「……はい。リストラです。会社をクビになってしまいました」
「そう、今おいくつですか?」
「四十四歳です」
「じゃあ、まだまだ大丈夫だねえ」
「はい? 何が大丈夫なのですか?」
おばあちゃんは優しく微笑んだ。
「あと二十五年は働けるでしょう?」
「二十五年……ですか?」
「だって、あたしは七十歳ですよ。つい先日まで働いていたのだから」
「……そうですね」
「何か、やりたいこととかないのかい?」
「……」
自分のやりたいことは何なのだろう? 子供たちの喜ぶ顔が見たかった。美味しいお菓子を食べた時の満面の笑み。自分が子供の時に感じたあの喜びを自分の手で届けたかった。だから、お菓子メーカーに勤めた。会社をクビになった今、自分は何をしたいのだろう。何をすれば残りの人生を価値のあるものにできるのだろう。世間では私のような人間を負け組とでも言うのだろう。でも、私はそれを悔しいとは思わなかった。惨めだと悔しがることもしなかった。ただ、無力な自分にうなだれているだけだった。
子供のころのあの気持ちはどこに行ってしまったのか。負けるとわかっていても、戦いに挑んだあの気持ちは――。
「隆君。自分の好きなことがないなんてそっちの方がつまらないんじゃないかって、わたしは思うんだけどねえ。わたしはみんなにお菓子を食べてもらうのが好きだから、いつも楽しいんだよ」
さっきの少年はもう立ち去ってしまったのに、おばあちゃんはさっき言ったのと全く同じことを口にした。
「ボケてるわけじゃあないからね」
おばあちゃんはおどけたように笑う。
「はい、わかっています」
わたしもおばあちゃんに微笑みを返す。胸にこみあげてくるものがあった。ついさっき聞いたセリフなのにとても新鮮に聞こえた。
私はおばあちゃんに深く礼をして、最後に一言、こう言った。
「私の初恋の人なんです」
「はい?」
「あなたがです」
心の中のもやが晴れて、自然と笑顔が出てきた。おばあちゃんはキョトンとした顔で私を見ている。
「これで失礼します」私はその場を立ち去った。そして、私は決意をした。
三ヵ月後、私はおばあちゃんがお菓子を配っていた場所に車を止めて、ある準備をしていた。カラフルな車体のワゴンの後ろのドアを一番上まで開けて、車の中から楽しそうな音楽を響かせる。何が始まるんだろう?近所の子どもたちが集まってきた。
その中にヘルメットをかぶり、グローブの隙間に金属バットを通し肩にかけている男の子がいた。土で汚れたユニフォームを着た彼はあのときの男の子に間違いなかった。
「隆君、おじさんのこと覚えている?」
「えっ、知らない」
「そうか……」
「野球は好きかい?」
「うん! 大好き! 」
「そうか……頑張れよ!」
私の心の中に何とも言えない心地よさが広がった。すがすがしい気持ちになった。ふと視線をそらすと、あのおばあちゃんが家から出てきて、こちらを見ていた。私はおばあちゃんに向かって一礼をした。おばあちゃんはこちらのほうに歩いてきた。
「あなたはこないだの……」
「はい。お店のお菓子はもう全部配ってしまったのですか?」
「ええ、配り終えてしまいました」
「私……自分の好きなこと、見つけました」
「そうですか、よかったですねえ!」
「はい、ありがとうございます。それで、あの、よかったらこれを」
私は初めて商品の袋を開けた。その袋から麩菓子を取り出しておばあちゃんに渡した。
「ありがとうございます。いただきます」
おばあちゃんは顔をしわくちゃにしながら、にっこりとほほ笑んだ。そして、ゆっくりとその場を立ち去って行った。
私は深呼吸をして、満面の笑顔で、集まってきた子供たちに向かって言った。
「さあ、今日から開店だよ。お菓子の移動販売だ」
“おばあちゃん、おばあちゃんの言うとおり、自分の好きなことがないなんてつまらないよね。少し形は違うけど、自分の好きなことをもう一度、やってみようと思うよ”
私の第二の人生が始まった。商売がうまくいくかどうかはわからない。でも、負けるとわかっている戦いではない。いや、負けるとわかってしまった時でも、最後まで全力で戦うんだ。そう、心に誓った。
今日は朝から快晴だった。時を経て、汚れてしまったアーケードの屋根から、薄い太陽の光が差し込んできた。
そして、暗く寂しい色に染まってしまった商店街には一人の大人と子どもたちの楽しそうな顔が光っていた。