お菓子
「リストラか……」
こんな時代だ。珍しいことではない。
私は大手菓子メーカーに勤務していた。入社して二十五年、真面目に働いてきた。商品開発部門に所属をし、いくつかのヒット商品も生み出した。会社への貢献度はそこそこあったはずだ。
入社したばかりの頃は、美味しくて安全なお菓子を作って、子どもたちを喜ばせてやるんだ。そんな思いを胸に働いていた。
しかし、何故だろう。仕事を失うことは大変なことだが思いのほか冷静な自分がいた。悔しい、悲しいという気持ちが湧いてこない。自分はいつの間にか仕事に対しての情熱を失ってしまっていたのだろうか―― 。
誰もいないオフィスで段ボール箱を自分のデスクに置き、書類などの私物を詰め込んでいく。ドラマなどでよく見る光景だ……と自分で思う。仕事を辞めてしまうのだから、もう必要ないだろう。そう思ってもなかなか捨てられないものばかりだ。
少しずつ寂しさが、やるせなさが、空しさがこみ上げてくる。夜になり、暗くなった外を見る。最初に視界に入ったのは、外の景色ではなくてガラス窓に映った自分の顔だった。
今にも泣きそうな顔だった。もし僕が今、五歳ぐらいの子供だったら、お母さん……って母親に泣きついていただろう。
私物をすべて詰め込んで、段ボール箱にふたをする。「入れすぎだな……」ひとり呟く。ガムテープで強引にふさいでも、箱の上部は少し盛り上がってしまう。
着払いの伝票を張り付けて、オフィスの端の決められた場所にその段ボール箱を置く。社内からの宅急便はここに置いておけば、運送会社が勝手に持って行ってくれる。
これで、すべて終わった。オフィスを出て鍵をかけ、管理室に行き鍵を返す。
「お疲れ様です」警備員に挨拶する。
「お疲れ様でした」警備員が挨拶を返す。
明日からはしばらくこの言葉を言うことはない――。
子どもの頃、やはりお菓子が大好きだった。
毎月、お小遣いをもらうとすぐに百円を握り締め近所の駄菓子屋に行ってお菓子を買った。一度にお小遣いを使うと楽しみがなくなってしまうので週に一回ぐらいのペースで通っていたと思う。
あれは確か小学一年の時だった。いつものように百円を握りしめてお店に行こうとした時、クラスのガキ大将に声をかけられた。
「おい! 今からケンカするぞ! 勝った方が負けた方に百円渡す。いいな!」
細くて力のない僕に勝ち目なんてあるわけなかった。逃げようと思った。――でも逃げたくなかった。そんな惨めなことはしたくなかった。僕は負けるとわかっている戦いに挑んだ。
「あら!どうしたの? 顔に傷なんか作って、ケンカでもしたのかな?」
戦いの後、お菓子も買えやしないのに僕は駄菓子屋に行った。いつも行く駄菓子屋のお店の人は三十代ぐらいの女の人だ。僕はうつむいて涙をポタポタ、地面に落としながら言った。
「負けたから、百円取られちゃったんだ。ケンカに負けたから……」
「自分からケンカするって言ったの?」
「違うよ…ケンカするぞっていきなり言われたんだ」
「逃げられなかったの?」
「うん、逃げるのは嫌だったんだ」
「そう、えらい! よく頑張ったねえ。それでこそ男の子。じゃあ、頑張ったご褒美にこれあげるから。元気出してね」
そう言って、お店の女の人は麩菓子を差し出してくれた。笑顔がとても素敵だった。僕は初めて、お母さんとは違う女の人のやさしさを感じた。麩菓子を受け取った僕はお菓子よりもその女の人の顔をずっと見ていた。……思えばあれが初恋だったのかもしれない。
懐かしい。ふと、こんなことを思い出してしまった。あの駄菓子屋はまだあるのだろうか――。
久しぶりだ、この駅の看板を見るのは。翌日、もう一度あの駄菓子屋の女の人に会いたくて私は三十五年ぶりに生まれた街へと降り立った。小学三年生の時に引っ越して以来の町。もう、おばあちゃんだよな。元気だといいのだけれど。
駅からの町並みはすっかり変わってしまっていた。あの時は新しかったアーケードの屋根もすっかり曇って割れている部分もある。商店街はシャッターがしまっている店が多く、グレーばかりの暗い色合いになっていた。ところどころに空き地もあり、再開発予定地の看板が立っている。
確か豆腐屋の角を曲がって五十メートルぐらいの所だったよな。目印となる豆腐屋はやはりシャッターがしまり営業している様子はなかったがかすれた看板の文字に見覚えがあった。
このあたりのはずだけど……やっぱり無くなっているようだな。肩を落として、来た道を引き返そうと後ろを向いたときだった
「おばあちゃん、僕にもお菓子ちょうだい!」
子どもたちがそう叫んで、私の横を駆け抜けて行った。振り返り、子どもたちが走っていた方向を見ると少し腰の曲がったおばあちゃんが台の上にお菓子を並べて子どもたちに配っているようだ。
きっと……あの駄菓子屋の女の人だ。
私はためらいながらも、お菓子を配っているおばあちゃんに近付いていった。
「あの、以前こちらで駄菓子屋を……」
「はい、やっていましたよ。つい最近、閉めることになってしまったのだけど」
私は来た道の途中にあった空き地の再開発の看板を思い出した。
「子どもたちに配っているのはお店の商品ですか?」
「ええ、返品もできないし捨ててしまうのはもったいないから。それに子どもたちの喜ぶ顔も見たいですし」
「僕、子どもの頃、あなたのお店にお菓子をよく買いに来ていたんです。ただお菓子を買うだけじゃなくて、落ち込んでいた時とかあなたにいろいろ励ましてもらいました」
「そうですか、それは嬉しいねえ。でも、お店がなくなってしまってごめんなさいね」
「いえ、あの……私もお菓子をもらってもいいですか」
「ええ、もちろんいいですよ。どうぞ麩菓子です」
――あの時のことなど、覚えているはずもないだろう。私が誰なのかも覚えているはずないだろう。でも、偶然にもおばあちゃんは私に麩菓子を渡してくれた。
「……ありがとうございます。いただきます」
「あっ、隆ちゃん。今日は野球の練習はどうだったの?」
私の横にいたユニフォームを着た男の子におばあちゃんがチョコを渡して話しかけた。
「野球、止めようかなあって思うんだ」
「どうしてだい?」
「もう、つまらなくなっちゃったんだ。野球」
「あんなに好きだったのに? ほかに好きなものでも出来たのかい?」
「いや、なんにも無いんだけど……」
「隆君、自分の好きなことがないなんてそっちの方がつまらないんじゃないかって、おばあちゃんは思うんだけどねえ。おばあちゃんはみんなにお菓子を食べてもらうのが好きだから、いつも楽しいんだよ」
「うーん……」
そう言うと隆君と呼ばれていた子どもは走り去っていった。
私は子どもの頃、駄菓子屋のおばちゃんと話したあの時の温かい気持ちと同じようなものを感じた。
「ごちそうさまでした。懐かしくて、とても美味しかったです」
「あの、失礼かもしれないけど……なにかあったんですか? 元気がないみたいね」
こんな時代だ。珍しいことではない。
私は大手菓子メーカーに勤務していた。入社して二十五年、真面目に働いてきた。商品開発部門に所属をし、いくつかのヒット商品も生み出した。会社への貢献度はそこそこあったはずだ。
入社したばかりの頃は、美味しくて安全なお菓子を作って、子どもたちを喜ばせてやるんだ。そんな思いを胸に働いていた。
しかし、何故だろう。仕事を失うことは大変なことだが思いのほか冷静な自分がいた。悔しい、悲しいという気持ちが湧いてこない。自分はいつの間にか仕事に対しての情熱を失ってしまっていたのだろうか―― 。
誰もいないオフィスで段ボール箱を自分のデスクに置き、書類などの私物を詰め込んでいく。ドラマなどでよく見る光景だ……と自分で思う。仕事を辞めてしまうのだから、もう必要ないだろう。そう思ってもなかなか捨てられないものばかりだ。
少しずつ寂しさが、やるせなさが、空しさがこみ上げてくる。夜になり、暗くなった外を見る。最初に視界に入ったのは、外の景色ではなくてガラス窓に映った自分の顔だった。
今にも泣きそうな顔だった。もし僕が今、五歳ぐらいの子供だったら、お母さん……って母親に泣きついていただろう。
私物をすべて詰め込んで、段ボール箱にふたをする。「入れすぎだな……」ひとり呟く。ガムテープで強引にふさいでも、箱の上部は少し盛り上がってしまう。
着払いの伝票を張り付けて、オフィスの端の決められた場所にその段ボール箱を置く。社内からの宅急便はここに置いておけば、運送会社が勝手に持って行ってくれる。
これで、すべて終わった。オフィスを出て鍵をかけ、管理室に行き鍵を返す。
「お疲れ様です」警備員に挨拶する。
「お疲れ様でした」警備員が挨拶を返す。
明日からはしばらくこの言葉を言うことはない――。
子どもの頃、やはりお菓子が大好きだった。
毎月、お小遣いをもらうとすぐに百円を握り締め近所の駄菓子屋に行ってお菓子を買った。一度にお小遣いを使うと楽しみがなくなってしまうので週に一回ぐらいのペースで通っていたと思う。
あれは確か小学一年の時だった。いつものように百円を握りしめてお店に行こうとした時、クラスのガキ大将に声をかけられた。
「おい! 今からケンカするぞ! 勝った方が負けた方に百円渡す。いいな!」
細くて力のない僕に勝ち目なんてあるわけなかった。逃げようと思った。――でも逃げたくなかった。そんな惨めなことはしたくなかった。僕は負けるとわかっている戦いに挑んだ。
「あら!どうしたの? 顔に傷なんか作って、ケンカでもしたのかな?」
戦いの後、お菓子も買えやしないのに僕は駄菓子屋に行った。いつも行く駄菓子屋のお店の人は三十代ぐらいの女の人だ。僕はうつむいて涙をポタポタ、地面に落としながら言った。
「負けたから、百円取られちゃったんだ。ケンカに負けたから……」
「自分からケンカするって言ったの?」
「違うよ…ケンカするぞっていきなり言われたんだ」
「逃げられなかったの?」
「うん、逃げるのは嫌だったんだ」
「そう、えらい! よく頑張ったねえ。それでこそ男の子。じゃあ、頑張ったご褒美にこれあげるから。元気出してね」
そう言って、お店の女の人は麩菓子を差し出してくれた。笑顔がとても素敵だった。僕は初めて、お母さんとは違う女の人のやさしさを感じた。麩菓子を受け取った僕はお菓子よりもその女の人の顔をずっと見ていた。……思えばあれが初恋だったのかもしれない。
懐かしい。ふと、こんなことを思い出してしまった。あの駄菓子屋はまだあるのだろうか――。
久しぶりだ、この駅の看板を見るのは。翌日、もう一度あの駄菓子屋の女の人に会いたくて私は三十五年ぶりに生まれた街へと降り立った。小学三年生の時に引っ越して以来の町。もう、おばあちゃんだよな。元気だといいのだけれど。
駅からの町並みはすっかり変わってしまっていた。あの時は新しかったアーケードの屋根もすっかり曇って割れている部分もある。商店街はシャッターがしまっている店が多く、グレーばかりの暗い色合いになっていた。ところどころに空き地もあり、再開発予定地の看板が立っている。
確か豆腐屋の角を曲がって五十メートルぐらいの所だったよな。目印となる豆腐屋はやはりシャッターがしまり営業している様子はなかったがかすれた看板の文字に見覚えがあった。
このあたりのはずだけど……やっぱり無くなっているようだな。肩を落として、来た道を引き返そうと後ろを向いたときだった
「おばあちゃん、僕にもお菓子ちょうだい!」
子どもたちがそう叫んで、私の横を駆け抜けて行った。振り返り、子どもたちが走っていた方向を見ると少し腰の曲がったおばあちゃんが台の上にお菓子を並べて子どもたちに配っているようだ。
きっと……あの駄菓子屋の女の人だ。
私はためらいながらも、お菓子を配っているおばあちゃんに近付いていった。
「あの、以前こちらで駄菓子屋を……」
「はい、やっていましたよ。つい最近、閉めることになってしまったのだけど」
私は来た道の途中にあった空き地の再開発の看板を思い出した。
「子どもたちに配っているのはお店の商品ですか?」
「ええ、返品もできないし捨ててしまうのはもったいないから。それに子どもたちの喜ぶ顔も見たいですし」
「僕、子どもの頃、あなたのお店にお菓子をよく買いに来ていたんです。ただお菓子を買うだけじゃなくて、落ち込んでいた時とかあなたにいろいろ励ましてもらいました」
「そうですか、それは嬉しいねえ。でも、お店がなくなってしまってごめんなさいね」
「いえ、あの……私もお菓子をもらってもいいですか」
「ええ、もちろんいいですよ。どうぞ麩菓子です」
――あの時のことなど、覚えているはずもないだろう。私が誰なのかも覚えているはずないだろう。でも、偶然にもおばあちゃんは私に麩菓子を渡してくれた。
「……ありがとうございます。いただきます」
「あっ、隆ちゃん。今日は野球の練習はどうだったの?」
私の横にいたユニフォームを着た男の子におばあちゃんがチョコを渡して話しかけた。
「野球、止めようかなあって思うんだ」
「どうしてだい?」
「もう、つまらなくなっちゃったんだ。野球」
「あんなに好きだったのに? ほかに好きなものでも出来たのかい?」
「いや、なんにも無いんだけど……」
「隆君、自分の好きなことがないなんてそっちの方がつまらないんじゃないかって、おばあちゃんは思うんだけどねえ。おばあちゃんはみんなにお菓子を食べてもらうのが好きだから、いつも楽しいんだよ」
「うーん……」
そう言うと隆君と呼ばれていた子どもは走り去っていった。
私は子どもの頃、駄菓子屋のおばちゃんと話したあの時の温かい気持ちと同じようなものを感じた。
「ごちそうさまでした。懐かしくて、とても美味しかったです」
「あの、失礼かもしれないけど……なにかあったんですか? 元気がないみたいね」