最後の運転
でも、一人だけ……、背番号四を付けた彼は私のバスに乗って来たのだ。一人でこっそりと学校に帰りたかったのだろうか。私もテレビで田島高校の試合を見て応援していたので、それが誰なのかはすぐにわかった。
「お疲れさん。よく頑張った!感動したぞ!ありがとう」
「……」
彼はうつむき、何も言葉を返さなかった。
「どうした?」
「すいません。みんな応援してくれていたのに、僕のせいで……」
消えさりそうな声で、肩を落として彼はそう言った。
「もう、野球は辞めようかと思います」
甲子園から帰ってくるまで、苦しい胸の内を誰にも話せずにいたのだろう。初めて会話をする私にこみ上げてくるものを抑えきれないように彼は言葉を発した。
「確かにあの時、皆がっかりしたよ。チームメイトも監督も応援している人も。だから、君は皆に対して借りを作ってしまったんだ。この借りは野球でいいプレーをして返すしかないんじゃないのか?」
「はい……」
「失敗を恐れずに積極的なプレーだったじゃないか。きっとそれが君のいいところなんだろう?自分を見失うな。次こそは皆を喜ばせればいいじゃないか」
バスの発車時間が近づき他の乗客が乗って来た。会話はそこで中断され、バスは発車した――。
そして、田島高校のバス停に着いた。
「元気をだせ。これからも前向きに頑張れよ!」
彼は私の言葉に涙ぐみながら頷き、帽子をとって九〇度のお辞儀をした。
「僕はこの先も野球を続けます。ありがとうございました」
日焼けした顔にこぼれた涙の美しさと吹っ切れたような笑顔が今でも心に焼きついている。
思い出に浸っていた自分に今度は若々しい青年の声がバスの案内テープから流れてきた。
“高橋さん。今までお仕事、本当にお疲れ様でした。四年前、高橋さんのバスに乗って励ましてもらった田島高校の野球部のものです。あれから僕は東京の大学へ進学して野球を続けています。まだ、応援してくれてる皆さんを喜ばせることはできていませんが、あの時の借りは必ず野球で返します。高橋さんの言葉、忘れません。ありがとうございました”
声だけしか聴いていないが、前向きに頑張っている、すがすがしい顔が浮かんでくるようだった。彼は必ず、立派な野球選手になって皆を喜ばせてくれるだろう。
「背番号四番、頑張れよ。期待しているからな」
テープの声に返事をするように私は上を向いて呟いた。
大野駅を出発してから二十五分。最後の運転の半分が終った。改めて、今までの自分の運転手の仕事を思い返してみると、職業という二文字の言葉では表せない、たくさんの思い出がある。そんな仕事についていた私は本当に幸せ者だなとしみじみと思い耽った。
バスは田島高校のバス停を過ぎ、だんだんと上り坂になる道へと入っていく。私はこの道から見える景色がとても好きだ。西から差し込む、澱みのないオレンジ色の夕日が優しく町を照らしている。右手には、そんなきれいな夕日に照らされた建築中の大きな一軒家が見えてきた。いい場所に家を建てているな。以前から、ここを通るたびにそう思っていた。この家の施工主もきっとこの夕日が見える景色が好きなのだろう。
“次は山道入口、山道入口です”
ここにはボーイスカウトの宿泊施設がある。毎年、九月の初めに参加する小学生たちが、駅からバスに乗って、このバス停で降りてゆく。
そして、この施設の館長を務めているのが、私の飲み仲間の大槻だ。大槻は止まったバスの運転手が俺だと気付くといつもバスの中に顔をだして、次の休みはいつだ?と飲みに行く予定を聞いてくるのだった。子供たちがいる前で酒の話なんてするなとよく注意をしたものだ。
次のテープの声は大槻かな? 確信めいた予想をしていると案の定、野太い大きな声が流れてきた。
“高橋、仕事辞めたら何時でも飲みに行けるな。楽しみにしてるぞ!”
今まで、感動的なメッセージばかりだったのに、オチでもつけたような言葉で笑ってしまった。
そうだなあ、もう休みの前の日じゃなくても酒が飲める。でもなあ大槻、こないだ話したろ。俺は仕事を辞めたらこの町を離れることになるんだよ。うれしいようなさびしいような複雑な気持ちだった。
山道入口のバス停を過ぎると、いよいよ残すバス停はあと一つとなった。残り十五分ほどで最後の仕事が終る。
皮肉なことに最後の運転となるこのバスには未だにお客さんが誰も乗っていなかった。でも、かえってよかったのかな。おかげで恥ずかしい思いをすることもなく思い出に浸ることができる。
“次は左陣池、左陣池です”
このまま、一人もお客さんが乗らずに最後の運転は終わるのかな。そう思ったその時だった。左前方、左陣池の畔に十五人ほどの人だかりが見えてきた。
あれは……。その人だかりの顔はすべて私がよく知っている顔だった。その顔はみんな笑顔で得意げな表情をしている。
バス停に着いて乗車扉が開く、待っていた十五人がぞろぞろとバスに乗って来る。照れくさくて、後ろを見ることができなかった。
「高橋さん、四十七年間、本当にお疲れ様でした。僕たちに高橋さんの最後のお客さんにならせてください」
同僚の運転手の笠原の声だった。
「私、一度は高橋さんのバスのお客さんになってみたかったんです」
事務の沖田さんの声だった。
バックミラーから見える、同僚たちの顔をのぞき見る。今度は皆、優しい穏やかな笑顔を浮かべている。
「運転手さん、早く発車しないと定刻通り着かないよ」
大山所長の声だった。今まで自分以外、誰もいなかったバスの中に笑い声が響いた。
「そうか……。みんなで俺をはめたんだな」
「はめたなんて人聞きの悪い。こういうのをサプライズっていうんですよ」
「英語なんか言われたってわからないよ」
「アイム・ソーリー」
整備士の津田さんがおどけたようにしゃべる。二度目の笑い声がバスの中に響いた。
「大野駅に誰もいなかったのも、みんなで仕組んだのか?」
「ええ、駅員さんに協力してもらってね。高橋さんのバスが来たらバスから見えないように隠れてくださいってお願いしたんです。その時に駅にいたお客さんにも協力してもらってね」
「そんなことまでして、ずいぶんと大がかりなものだ」
私は呆れたように笑った。でも、その言葉は涙で詰まって語尾がかすれてしまった。
「では……、発車いたします」
私は涙で靄がかかった視界を拭い、バス発車させた。
バスは日が暮れて暗くなってきた山の中を走る。終点まであと少し。でも、心の中はさびしさよりもすがすがしさに包まれていた。
“ご乗車ありがとうございました。まもなく終点、前陣峠、前陣峠です。”
前陣峠のバス停の奥に赤い提灯の明かりがたくさん見える。やぐらの白い照明と屋台の電球の明かりも見える。お祭り会場にはすでにたくさんの人が集まっていた。
バスはとうとう終点に到着した。
「ご乗車……、ありがとうございました。終点の前陣峠です」
運転手としての最後のアナウンスをすると、最後のお客さんとなった同僚たちが私の横の降車口にやってきた。