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最後の運転

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「高橋さん、今日の最後は十八時〇八分の前陣峠までの臨時便をお願いできますか」
 今日の最後ではない。私のバス運転手としての最後の運転がこの臨時便になるようだ。 今日は前陣峠で夏祭りが行われるため、臨時の増発便がでることになっている。
 四十七年間、ローカルバスの運転をしてきた。一日に五十人ほどしか利用しない駅から山の上の前陣峠のバス停まで、片道五十分の路線。
 青森県東津軽郡大野町――。私の生まれはこの町ではないのだが、ここで長年暮らし働いて、本当のふるさとのように感じていた。バスのお客さんと言えば、いつも決まった人ばかり。私はこのバスを利用する多くのお客さんの顔と名前を憶えている。私にとっては自分のバスに乗ってくれるお客さんは家族同然だった。
 この職を退いた後は東京にいる息子が建てた二世帯住宅へ引っ越しをすることになっている。長年勤めたこの仕事を辞めることは同僚も含め、この町の人々すべてとお別れするということになるのだ。
 十七時五十分。事業所で軽い休憩を終え、最後の運転へ向かう時間になった。
「では、行って参ります」
 同僚から高橋さんのあいさつはいつも堅いなあと言われ続けたこの言葉を、同じように口にして事業所を出た。
「はい、気を付けて……」
 最後だというのに事業所にいた仲間たちの態度はなんだか素っ気ない。
 ここからバスを発車させるのもこれが最後だ。バックミラーによくコーヒーを買っていた自動販売機と古臭いベンチが映る。ここで同僚と趣味である釣りの話や仕事の愚痴やお互いの家族のことを話したものだ。
 事業所から駅までは五分ほど。左手には変電所。右手には倉庫と工場がポツリポツリと立ち並ぶ街の中では割と広い方の道を走る。
 正面にところどころに錆びが入った小さなモニュメントが見えてきた。駅に着いた。いよいよ、最後の運転業務の開始となる。
 しかし、駅前のターミナルの様子は例年の祭りの時とは違っていた。駅前には人がまったくおらず、シーンと静まり返っているのだ。始発となるバス停にも誰もいない。
 おかしいな……。祭りの時は隣の町からも電車に乗ってお客さんが来るはずなのに……。運転席から駅舎のほうをのぞいても人は誰も見当たらなかった。駅員の姿すら見当たらない。疑問は大きくなるばかりだったが、出発の時間である十八時〇八分を車内の時計が示した。
「発車いたします」
 誰もいない車内に自分の声が流れる。そして何万回聞いたかわからない、テープの案内音声が流れた。
“毎度、大野町営バスをご利用いただきまして誠にありがとうございます。このバスは大野駅発、前陣峠行の臨時バスです――”
 ん?なんだかいつものテープの声と違うな……。違和感を感じた私の耳に次に入ってきたのは、こんな言葉だった。
“高橋さん、最後の運転。いつものように安全運転でお願いします。”
 これは……、経理の原口さんの声だ。どうして原口さんが……。私の最後の運転に何かの趣向をこらしたつもりだろうか? まったく、こんなテープを流してお客様が乗っていたらおかしく思われるじゃないか。
 苦笑いを浮かべて、私は運転を続けた。
 駅前のターミナルを出て両側に古い店が立ち並ぶ商店街の道を進む。今日は祭りがあるので、どの店も普段よりも早く店を閉めている。この町の商売人は皆、祭りの雰囲気を楽しみたくて自分の店を早く閉めて、お祭り会場で屋台の準備をするのだ。
 バスはわずか百メートルほどの商店街を抜け左折をし、薄い水色の欄干の笹目橋にさしかかった。下には幅の狭い笹目川が流れている。この川は都会の川のように汚染されておらず、メダカやサワガニなども生息している。
 東京から息子夫婦が帰省して、孫を笹目川に連れて行った時、孫は大はしゃぎで川遊びをしていた。メダカやサワガニなど都会では見ることなどできないだろう。
“次は笹目が原、笹目が原です”
 笹目橋を渡ると、左側に広大な原っぱと田園が広がってくる。東京ドームでいうと何個ぶんだろう? 十個なのか二十個なのかわからないが、そこにある田圃へと続く畦道の入り口に笹目が原のバス停は設置されていた。
 畦道の先には古くから建っているであろう農家の一軒家がポツリ、ポツリと八件ほどある。そのうちの一軒が小田のおばあちゃんの家だ。
 小田のおばあちゃんは腎臓病を患っていて毎週、月・水・金の三回、透析のためにとなり町の病院へ通っている。病院の帰りに駅からバスに乗り込むと、必ず運転席の私の横にきて、今日の体の具合だとか、看護婦とこんな話をしただとか、病気とは思えない明るい笑顔で話してくれた。
 小田のおばあちゃんとももう会えなくなるのか……。さびしく思っていると、今度はバスの案内テープからこんな声が流れてきた。
“高橋さん。いつもこんな年寄りの話を聞いてくれてありがとうね。わたしゃね、高橋さんのバスが大好きだったのよ。これからは乗れなくなるのがさびしいけど、長い間運転お疲れ様。本当にありがとうね”
 おばあちゃん……。年配の方の独特の優しい、落ち着いた声のメッセージを聞いて、胸が熱くなった。同僚がおばあちゃんにテープにメッセージを吹き込んでくれるようにお願いしたのだろうか? 誰が考えたのか知らないけど、なかなか心憎いことをしてくれるな……。
 
――笹目が原のバス停にさしかかった。このバス停も乗客の待っている姿はなかった。
「まだ乗客は一人もいないままか……。これじゃあ、臨時の便を出した意味がないな」
 私の他には誰もいないので、声に出して呟いてみる。黙っていると、心の中がさびしさで埋め尽くされそうだった。
 
 笹目が原の広大な原っぱを抜け、十分ほど走ると右手にある御嶽山のふもとにこの町唯一の高校が見えてくる。
“次は田島高校前、田島高校前です”
 彼は今頃どうしているのだろう……。このバス停でユニフォームに背番号四をつけた高校生が降りて行った時のことが思い出される。
 田島高校の野球部は四年前、春の選抜高校野球にギリギリのところで選ばれて出場した。地方大会ではベスト8だった為、まさに出場可否のボーダーラインだったのだ。この町始まって以来の快挙に町の人々は大喜びで選手たちを励まし、応援した。試合の二日前に二百人以上の応援団で甲子園まで乗り込んだ。
 しかし、田島高校は敢え無く一回戦で敗退した。スコアは二対一。名門校相手に善戦したが、最終回に内野手が痛恨のエラーをしてしまい、それが決勝点につながり敗れてしまったのだ。
 敗因を作ってしまった内野手は二塁手。背番号四をつけた彼だった。
 田島高校の野球部の生徒達は本当に一生懸命に戦った。エラーとなってしまった打球処理も無理をしなければ内野安打だけで済んでいたのだ。強い闘争心が結果として悪い方向に出てしまった。
 それは監督もチームメイトも応援していた人たちも皆、わかっていた。もちろん背番号四の彼を責めるものなどいなかった。
 田島高校の野球部が大野駅に帰ってきた時、学校が用意したマイクロバスに野球部の生徒たちは皆乗り込んだはずだった。
作品名:最後の運転 作家名:STAYFREE