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拝み屋 葵 【弐】 ― 余暇見聞録 ―

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 *  *  *

「有意義な時間だったわー」
「ウチは散財や、七個も八個も食いよってからに」
「感謝しているわ。私がお店を出したら倍返しするから」
「日本では三倍返しが基本やで」
 二人は顔を見合わせて、にっと笑いあった。

 大阪難波と伊勢志摩とを結ぶ近鉄大阪線に揺られること二十分。
 電車は、トンネルの間にある東青山駅に到着する。
「昨日まで雨やってんけどな、ほんま晴れてよかったで」
 東青山駅は、青山高原への入口であり、布引の滝への玄関口だ。また、すぐ近くに惣谷池というため池があり、よく晴れた風の弱い日であれば、遊歩道となっている堰堤の上からの眺めは、空の青が湖面に映り込んだ思わず息を飲む景観となる。
「マルセイユには、この三倍ぐらい大きな湖があるの。ベール湖っていうのよ。この景色は三倍返しできそう」
「景色は三倍返しせんでえぇねんよ」
 惣谷池とその周辺を大きくぐるりと囲んでいる遊歩道は、途中から舗装されていない林道となる。約五キロほどの道程では、野鳥のさえずりがあちこちから耳に届けられ、運が良ければリスやムササビの姿を目にすることも出来る。
「アオイは、本当に山が好きやね」
 葵はサラの語尾が関西口調になっていることに気付く。口調が移るのは、それだけ会話が行われているという証拠だ。葵と、ではない。周囲にいる中学校の級友たちとの会話だ。
 無意識に出たものであるため、サラ本人は気付いていない。そのことが、周囲に解け込めているのだという安心感を葵にもたらした。
「いまね、学校に料理研究会を作ろうとしてるの」
「製菓やないんか?」
「料理からも学べることがあると思う。日本人ってすごいね。良いものは何でも吸収して、自分たちの文化に組み込んでしまう。節操がないって見下す人もいるけど、私は排他的に振る舞うよりいいと思うの」
 最早、サラの瞳がここではないどこかを探して彷徨うことはない。
「空は、高くて広くて、誰も手にすることは出来ない。けど、空よりも小さいはずの湖は、高くて広い空をも自身の景観に取り込んでしまう。私は、“節操なく”何でも吸収してみようと思ったの」
「おーおー、やったったらえぇねん」
「これが私の『何もしないことが修行』の成果よ。単位はもらえるのかしら?」
 葵は何も答えず、ただ、にっと白い歯を見せて笑った。
 そして、サラも同じように笑った。

「ほな、戻ろか」
「え? 一周しないの?」
「サラちゃん、ヒラヒラなスカートやんか。汚れてまうで」
「んもう。先に教えててくれたら、準備してきたのに」
 サラは残念そうな面持ちで、眼下に広がる惣谷池を振り返った。
「また来ようね」 そう言おうとして葵の顔を覗き込んだサラは、葵の表情に緊迫の色を見つけ、言葉途中で息を飲んだ。
「鳥が……鳴いてへん」
 先程まであちこちから聞こえていた野鳥の鳴き声が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
 風もなく、辺りはしんと静まり返り、鏡面を湛える惣谷池が不気味な雰囲気をさらに強調する。
「地震が来る」
 フランスでも地震は起こる。日本ほどの頻度ではないが、ピレネーやアルプス周辺において地震による被害が確認されている。サラが育ったプロヴァンス地方は、まさにそのアルプス周辺に含まれる地域だ。
 サラは葵の言葉に疑いを持たなかった。
「じゃあ、この先に行った人を呼び戻さないと!」
「ちょっ、まっ、サラ!」
 葵の制止に耳を貸さず、駅とは逆方向の林道に向かって走り出した。葵もすぐに後を追って走る。
「地震が来るんです! すぐに避難して下さい!」
 葵が林道に入ったとき、既にサラは声を掛けていた。
 熟年の夫婦らしき二人組は、唐突に紅毛碧眼の少女に声を掛けられたことに困惑の色を隠せないでいた。
 危機を察知して伝えても、信じてもらえない。そんな無力感。いままで葵が何度となく味わってきたものだ。
 そうして、動き出せるのは手遅れになってからだ、とその身に刻んだのち、それでも何とかしたいと足掻くことになるのだ。

 野鳥と昆虫の声が不在となった森林は、不気味なほどの静寂を抱いている。
 そんな森林の奥で、のそり、と動いたのは、他の何物でもない、自然そのものだった。

「っ!!!!!!」

 山が悲鳴を上げているかのように、大気が鳴く。
 大きな空気のうねりが、音無き音となって鼓膜を振動させる。
 右かと思えば左へ、左かと思えば後方へ。情け容赦のない揺らぎの前では、人間はいとも容易く蹂躙され、自然の驚異にひれ伏すこととなる。

「極意は自然との調和や」

 葵は、あらゆるを地に伏せようと襲い掛かる揺らぎをものともせず、サラと熟年夫婦に向かいひた走る。
 うずくまるサラの肩に手を置いた葵は、周囲をぐるりと見渡した後に身を屈めた。揺れはまだ止まってはいない。
「揺れが止まったら駅まで走るんや。あの二人はウチに任しとき」
 恐怖で声が出せなくなったサラは、それでもなんとか意思を伝えようとして小刻みに頭を上下させた。

 葵は熟年夫婦に目線を飛ばし、不謹慎ながらも優しい気持ちになった。無力でありながらも、伴侶を守ろうとして背中に回されている手の温もりは、何よりも心強いものであっただろう。

 一分後、揺れが止む。
 サラはよろけながらも立ち上がり、ゆっくりとではあったが歩き始めた。走ろうという意思はあっても、身体が恐怖から脱していないのだ。
 葵はサラの背中を見送りながら、熟年夫婦に歩み寄る。
「立てますか?」
「なんとか大丈夫だ」
「余震が来るかも知れへん」
「本当に地震が起こるなんて」
「いまのうちに避難しまっせ」
 葵は、地震の予知についての話題を敢えて無視した。
 ミシリ。
 災害はこれで終わりはしない。ミシミシと足音を立てて迫り来る第二の爪。長く降り続いた雨で緩んでいた地盤は、大きく揺れる地震によって脆くも崩壊し、それによって発生した地滑りは、範囲と勢いとを増幅させて土砂崩れとなる。
「遠い」
 葵はそう呟いたのち、未だうずくまって震えている老女を助け起こそうと手を伸ばした。
「きゃああああああ!!」
「うああああああ!!」
 熟年夫婦二人の悲鳴が森林にこだまする。
 根元が腐っていた樹木の倒壊が起こり、山を切って通してある林道に次々と倒れたのだ。
 その一つが夫婦目掛けて倒れ込んだ。
 葵一人ならば簡単に回避できた。ただし、後ろには二人の老人がいる。一人であれば、もしくは二人が若者であれば、抱きかかえて飛ぶなり、突き飛ばすなりのやりようもあった。
 救えるのはどちらか一人。
 瞬時に一方を選択し、抱きかかえる動作に入った葵の視界の端に、走り去ったはずのサラの姿が映った。
 サラは、夫婦の悲鳴を聞いて立ち止まり、振り返っていたのだ。
「それはアカンわ」
 葵は、揃えた二本の指で中空に五芒を切った。


 ―― 急々如律令