選択の円卓
次に、どうぞとでも言うふうに視線を向けられた左側が口を開く。
「思い返せば私もあの先生のことが好きだったのかもしれない。でも付き合うとか、そんなことにはならなかった。というか普通付き合うか? 何考えてるの。相手は既婚者だぞ」
「他の彼氏はいるの? 私とは別の人かな?」
「いないし、今質問していいのはあんたじゃないでしょ」
二人が私を見る。似通ったその動作を少し怖いと思った。
ため息をつく。つまり、ここにいるのは私とは別の選択をした私たちだということか。
「私は、」
と、自分の口から出た声が思いの外弱々しくて嫌になった。
聞きたいことよりも聞いてほしいことが先に浮かぶ。私はもう一度声を出す。
「私はわからない。先生のこと確かに好きだったけど、今も好きなのかって聞かれると自信を持って答えられない」
「じゃあなんで付き合ってるんだ」
左が呆れたように言った。
「離れるのは淋しいことだからね。そう簡単に決断できることじゃない」
右が微笑んで言った。
私は想像した。あの人から離れるということ。あの人と向かい合ってコーヒーを飲む時間が無くなるということ。あの人の偉そうな説教を聞くことがなくなるということ。からかうように笑うあの顔が私を見なくなるということ。
「ああ、本当だ。淋しいや」
私が呟いた声に、二人の私は肩をすくめてみせた。私は左の私を見る。
「先生に出会う前の私は自分が愛だの恋だのにこんなふうにはまるなんて想像もしていなかった」
左側の私はその頃の気持ちのまま成長した私。
「先生がいないなら、私は他の何に時間を費やしているの?」
「高校のときに始めたテニスを続けてる。別に恋愛の代わりにしてるつもりはないけど」
左の答えを聞いてから、私は右の私を見る。年齢は同じくらいなはずなのに、どこか大人びた印象を受ける。
「私は先生のことを嫌いになったの?」
意味深長な微笑みが応じる。ああ、そうだ、その笑い方は先生に似ている。
「どうだろうね。でも、未来がないと思った。だってそうでしょ? あの人は自分の家庭を放り出して私に走る気はない」
その通りだ。
「私は私のために人生を選び取らなきゃ」
自分のための選択。その言葉を眼を閉じて反芻した。
「私の選択は間違ってると思う?」
「それを決めるのはあんただよ」
「あなたの人生は私の人生とは別のもの」
「正しいものを選ばなきゃいけないと決まってるわけでもないし」
「いや、やっぱり今の関係は良くないと思う」
「自分の気持ちに素直になって」
無数の声が、答えが、辺りに反響した。まるで急に私が増殖したみたい。目を閉じたまま私は考える。
本当に、選択とは可能性だ。でも、彼女らが語りかける声は段々と明白さを失って、言葉の形を成さなくなっていく。
雑音に取り囲まれている。煩わしくて目を開けた。音はぴたりと止んで、二人の私がただそこにいる。
「決まった?」
と左が笑って尋ねる。
「決まらないけど答えは出た」
私は言った。
「そいつは上出来」
右が蝋燭に手を伸ばした。
「最後に何か言うことは?」
二人の顔を順番に見る。最早私ではない二人の知らない女の子。
「妹たちによろしく」
蝋燭の炎が揺れて消えた。
目覚まし時計がやかましく鳴り響く。見慣れた天井。私の部屋。私のベッド。右手を伸ばして時計を止めて起き上がる。
「アキちゃん遅刻するよー!」
廊下を駆けるミキの声が通り過ぎる。
やれやれ。私の分の朝ご飯は残っているだろうか。
部屋を出ようとして、立ち止まる。引き返して机の上の携帯電話を開く。メールの新規作成。宛先には送信履歴の最上位の名前を選択する。
「昨日の今日ですが、会って話をしたいです、と。送信」
送信完了の表示を確認してから携帯を閉じて私は部屋を出る。マキがいた。
「おはよ」
「おはよう。どうだった?」
「さてね。気味の悪い夢だったよ」
ぽんぽんと妹の頭を叩いて、私は笑った。
会いたいと思った。あの人と話して決めたいと思った。それからでも遅くはないはずだ。
私の選択を左右するのは私自身でも妹たちでもなく、先生であるべきだ。
そんなふうに思う時点でどうしようもなく私の心は決まっているのかもしれないが。