現代詩の記号論
結論
3.結論
詩は鑑賞者に情緒的感銘を与える芸術作品であると同時に、論理的構造や機能を持った複雑な構成体でもある。だから、詩を誠実に受け止めるためには、その芸術作品としての側面だけではなく、論理的構造体としての側面にも目を向ける必要がある。分析とはまさに詩の構造体としての側面に目を向けることであり、もちろん限界もあるが、詩に対する誠実さの一つの現れである。
分析の価値を、鑑賞の価値をはかる尺度ではかってはならない。分析には鑑賞とは違った目的がある。分析の目的に徴すれば、分析の価値をはかるためには、それがどれだけ詳細に、統一的に、重層的に、発見的に、構造的に、論理的に詩を理解できるかという尺度によらなければならない。この尺度によれば、理論的分析が優れたものであることが分かる。
詩は、記号作用を媒介せずに直接読者の情緒に訴えかける側面もあるが、記号作用を媒介にして読者に感銘を与える側面もある。だから、詩の美的作用も部分的には記号論的に分析することが可能である。
現代詩においては、意味論的コードや統辞論的コードが破られ、新しく記号やコードが創造されることがある。その際、新しくできた記号の記号内容はただちには特定されず、解釈の可能性の広がりとして読者に与えられる。これが読者に美を感じさせることがある。
特殊なコードとして「世界の法則」がある。世界の法則を破ることによっても、読者に詩的感興を与えることができる。
本稿では、詩の「コードを破る側面」に主に注目してきた。だが最後に、特にコードを破らなくても十分美しい詩は書けるし、特にコードを破らない詩行も詩においてはたいへん重要であることを指摘しておく。それは、ストーリーや思想、認識、情景、感動などを分かりやすく直接示すことで、現代詩においてはむしろコードを破る表現よりも重要なくらいである。そのようなものの好例として、高見順の「葉脈」から引用する。
僕は木の葉を写生してゐた
僕は葉脈の美しさに感歎した
僕はその美しさを描きたかつた
苦心の作品は しかし
その葉脈を末の末までこまかく描いた
醜悪で不気味な葉であつた
現代詩のもっと多くの側面について記号論的に分析したかったが、紙数が尽きてしまった。芸術の記号論的分析にもそれなりの価値があることを分かっていただければ幸いである。