東奔西走メッセンジャーズ 第二話
ちなみに、平均で25km/hを維持してたよ、2日目にしちゃ上出来上出来、なんて言いながら、先輩は帽子で顔をパタパタと扇いだ。
荒れる息を整えながら、そんな涼しい顔をしている先輩に、俺は対照的な顔を向けた。
「後どれ位です?」
「このペースなら1時間程度かな」
このペースを維持しろとか、けろっと言われると困るんだけど……。
「そうですか……」
ボトルケージ(※自転車のフレーム等に装着する、ドリンク類を保持する為の器具、走行中でも飲みやすく作られた専用ボトルに対応したものが一般的だが、ペットボトルに対応した物もある)からスポーツドリンクのペットボトルを取って口に含む。
普段は甘過ぎると感じていた飲み物だが、今は水に近い位自然に飲める。
「やっぱり、こういうのって『スポーツ』ドリンクなんですね、初めて有り難味を覚えましたよ」
「あはは、確かにね……尤も少し濃い目だから、私は使う時は薄めてるけど」
「そうなんですか?」
「ん、ちょっとね、甘いと口の中がベトつくし」
「へぇ、ちなみに先輩は今日は何を?」
「ん?今日は麦茶よ、本格的に長距離やる時は果糖が入ってる奴を適当に選んだり、ちょっと辛い時には飲む点滴なんてのも使ったりするかな……ところで」
「はい?」
「お尻痛くない?」
「……痛いです、かなり」
停車を求めた一番の理由は、実はこっちだったりして。
「良く判りますね?」
「ま、罹患率100%に近い初心者病みたいな物だから……体重軽い女の子なんかだと、知らずに過ぎちゃう稀有な子も居るみたいだけど」
そう言いながら、先輩は俺の自転車のサドルに手を置いた。
「初心者じゃなくても、そんな小さくて固いサドルじゃ痛くなるんじゃないですか」
「所が、私たちはこれで100km、200kmと走れちゃうのよね」
「その辺が、キャリアの違いですか?」
それ言っちゃうと、大雑把過ぎるわね、なんて呟きながら先輩は肩を竦めた。
「もう少し細かく言うと、乗り方と意識の差……ね、幸い君の体重は軽めだから、それで大分マシになる筈よ」
「そうなんですか?」
「最終的には自分と合うサドル探しの旅に出る羽目になる人が多いけど、それは150kmとか超えた時点での話だしね……さて、ここで質問、サドルって座る場所だと思う?それとも腰掛け?」
その表現に違いは有るのか?
しばし考えてみたけど、そもそもの違いが判らなかった俺は、素直にその事を先輩に申し出た。
……研修的にはこれはマイナス評価になるんかな。
「そうね、先に正解を言うと、ママチャリやクルーザーのサドルは座る場所。スポーツ自転車のサドルは腰掛ける場所なの……腰掛と言って判りにくければ、体重を預ける場所じゃなくて、ちょっと置いておく場所、と意識すると良いかな」
うーん、イメージし辛い……。
「具体的にはどうすれば良いんでしょう?」
そう問いかけた俺に、先輩はちょっと意地悪そうに微笑んだ。
「方法は昨日ちょっと話をしたんだけどね……覚えてない?」
サドルに関して……。
あれこれあり過ぎた昨日の中で、先輩と話した色々な事を思い返す。
(サドル、この高さで大丈夫?)
(着いちゃ拙いんだけどね〜……ま、良いか、その内判るだろうし)
あれか……。
「もしかして高さですか?」
「正解、実際はハンドルまでの距離も重要だけどね……どう、昨日の言葉が良く判ったでしょ?」
にまっと笑う先輩……。
はい……身を以って良く判りました……特に尻辺りで。
それにしても、意外に意地悪な人だな、教えてくれれば良かったのに。
先輩が自分の自転車に跨る。
「ちょっと私の乗車姿勢を見てて」
いつ見ても軽やかな動作で走り出す。
そして、前傾しているために、殆ど浮いた感じになる、綺麗なラインのお尻。
「どう、座ってないでしょ」
「ですね」
ひょいと、先輩が自転車から降りる。
「ドロップハンドルや、私の使ってるブルホーンって形状のハンドルは、こうやって前傾する事によって、体重を腕に分散させて、その分、サドルに掛かる体重を軽減させてるわけ……さて、以上を踏まえて乗ってみて」
「はい」
確かに、自分の自転車に跨ってみると、その違いは歴然としている。
「このサドルの高さだと、体重がほぼ垂直にお尻に掛かってるのが判る?」
無言で頷いた俺に、先輩は言葉を継いだ。
「まぁ、ハンドルの形状が違うから、取れる前傾姿勢には限度があるけど、寧ろ初心者には丁度良いし……さーて上げましょうか」
工具を手に、先輩が俺の愛車ににじり寄る。
理由は判ったんですが……何故に先輩はそんなに楽しそうですか?
「おお……」
たかがサドルの高さ、と思うなかれ。
俺の愛車の姿が格好良く、また僅かだが玄人っぽくなった。
「やっぱスポーツ自転車ってのはこうじゃないとねー」
俺の隣で先輩も満足そうに頷く。
(後はスタンドを毟れば……)
なにやら、不穏な呟きが微かに聞こえた気がするけど、取り敢えず俺は聞こえなかったフリをした。
「このポジションを極むれば、お主はいかなるサドルをも自在に乗りこなす事が可能になるのじゃ」
「ホントですか……というか、先輩しゃべりが変です」
「えー、なんか師匠っぽくない?」
「漫画じゃないんですから、普通に喋りましょうよ」
「人生とは仮面を付けて演技する舞台だよ、少年」
「だから誰ですか、それは」
「誰だろ、物は知ってるけど、頭悪そうな奴が言いそうな台詞だよね……さてと、後輩のノリも悪いし、通常営業に戻りますか」
「そーして下さい」
しかし、先輩、飄々とした人に見えて、意外に皮肉がキツイな……。
その辺でも氷川教授と波長が合ったのかも。
「これはフラットハンドルタイプなので取れる前傾姿勢に自ずから限度がある分、体重の分散が不十分になるから完璧じゃないけど、このポジションに慣れていけばその痛みの問題は徐々に解決されていくわ」
「徐々に、ですか、やっぱり」
「そりゃそうよ、ただ君は体重軽い方だから、直ぐだとは思うわよ」
「慣れるまでがしんどそうですね……その間だけでもサドルのクッションが柔らかい奴を使うってのは無しなんですか?」
「うーん……イエスでありノーかな」
どう説明したものか悩む様子で、まりな先輩が腕組みをする。
比較的長身で、すらっとした体型の先輩だけに、そういうちょっと男っぽい姿が綺麗に決まる。
「逆に、こんな板みたいな細くて固くて薄い、ママチャリと丁度正反対のサドルをスポーツ自転車で使うのには理由が有ってね……どう、判る?」
大概の工業製品は合理的な理由が有ってその姿をしてるもんだよな。
にしても、やっぱり本日は研修だ、色々考えさせられる事が多い。
「そうですね……軽量化のためですか」
自転車のカタログを色々見ていて、かなりの部分でウリになってたのが軽さ。
確かに、人力だけで動くものなんだから、軽いってのは想像以上に大きい利点の筈だ。
「んー……1個正解したから、取り敢えず50点、今日の終わりにもう一度聞くから、考えておいてね」
「判りました」
そうだよな、ど素人の俺には考える事が、考えなきゃいけない事が沢山ある。
作品名:東奔西走メッセンジャーズ 第二話 作家名:野良