よいこ
「わたし、宵子の話が聞きたい。宵子はなんでこんばんはしか言えないの」
「よく覚えてるね」
「もちろん。風のにおいも、空気のいろも、宵子の髪の透明さも、覚えてる」
宵子の髪にはいくつも光が散りばめられていて、星と金星の違いはさっぱりわからなかった。
「呪縛」
「……じゅばく」
宵子のために風が止む。宵子の空がどんどん透明になってゆく。
「漢字、わかる? 呪いに縛るって書くの。呪縛。でもおまじないと何も変わらないんだよ」
宵子の髪が、完全に、空にとけた。
「すっごくくだらないよ。昔の夜にね、おかあさんがね、コラ、今はコンバンハでしょって言ったんだよ。それだけ。わたしはそれからこんばんはしか言えなくなったの」
「なにそれ。どうして」
「良い子だからね、わたしは」
「でもこんばんはしか言えないのは悪い子だよ」
「そう。良い子だったから、悪い子になっちゃった。だからおうちに帰れないんだよ。わたしみたいな子、いっぱいいるよ。そういう子はね、空にとけるの。セーラー服を着て、風と混ざって、潮を孕んで、旅立つの」
「どうして?」
わたしの目には、宵子の向こうの山が映る。
「大きくてかたちの無いものにふれて、今度は悪い子になって生まれるの。そうすれば、今度はきっと、呪縛のない人生を送れるの」
「……宵子」
「なあに」
「今日は朝まで一緒にいよう。宵子は言えなくてもいいから、わたしはおはようを言う。宵子の旅立ちは、夜明けでしょ」
宵子はわたしをジッと見つめた。わたしは首の奥のあたりで火種が燻っているような気がして、宵子の瞳が太陽に見えた。
ただひたすらに、風を浴びる。隣の宵子が消えていく。本物の太陽が水平線のすぐそこまで、きっと迫っている。
「宵子っ」
宵子はこちらを見なかった。代わりとでもいうように手を伸ばしたから、わたしはそれを強く握った。
「宵子、また、逢おうね」
「うん、逢おう。巡り逢おう」
「うん。うん」
太陽の頭が見え隠れする。宵子の向こうで見え隠れする。わたしはもう、宵子のまなざしと指の温度しか感じられない。
「おはよう。宵子」
光がほんの少しかげる。それはきっと宵子のくちびる、舌の動き。
「……おはよう」
一陣の風にさらわれて、宵子の気配が消えた。
わたしはひとり取り残されたような気分になった。妙に冷静に、自分はずっとひとりでいたのかもしれないなどと思った。それでもひとつ呼吸をすると、透明な彼女の髪の匂いを吸い込んだような気分になって、朝の突き刺すような空気を肺腑の奥まで満たしていった。
こころいとしい友人の風に、染め上げられる心地だった。